ねこのの。

 

5章:交差した軌跡

   

5-1 星待

 『次は〜星野遺跡前、星野遺跡前です』
 臨時バスが星野遺跡前につく頃には、乗客は自分達しかいなかった。
 はるねぇが肩にもたれかかるようにして、ぐっすりと眠っている。くっついている肩や腕が、正直、暑い。
「おい、はるねぇ。起きろ、着いたぞ」
「…んにぅ………」
 寝ぼけ気味のはるねぇを引っ張る様にして、バスを降りる。
 バスのライトが遠ざかっていくのを見つめる。夜の闇に軌跡を描きながら少しずつ消えていく光は、綺麗だと思った。
 夏の夜の空気を、大きく吸い込む。夜の静寂が心地よかった。
 太鼓の音が耳に残るだけで一切の音は無く、ただ周囲からの微かな虫と風の音だけが響いていた。
 夜が好きだった。人の気配を感じない、限りなく広い空間を認識できる、この心地よい孤独が好きだった。
 上空には満天の星空が視界一杯に広がっている。――――“夏は、夜。”その言葉を理解した気がした。
「さて、と。帰るか、はるねぇ」
 家に向けて一歩を踏み出そうとしたところで、袖をつかまれた。
「……? どうした?」
「…………。……帰りたく、にゃいよ……」
 はるねえは、今にも泣き出しそうな表情を俯かせ、さらにぎゅっと袖を掴む。
「帰って、寝たら、……明日に、なっちゃうにゃ………」
「そりゃそうだろ。寝てても起きてても、それは一緒だろ?」
「うん。…………。でも、まだ、帰りたくにゃいにゃん。……もう少し、もう少しだけでもいいにゃ。……ね?」
 深い溜息をつく。きっと叱ってでも家に帰すべきなのだろう。たとえ今は調子がいいのだとしても、さっきの様な事が無いとはいえない。
 こんなことで、また、風邪でも引かせるわけにもいかない。
「………おねがいにゃ………」
 はるねぇから『お願い』だなんて言葉は、初めて聞いた気がした。こんな切なげに何かを頼まれることなんて、きっと無かった。
 はるねぇの目が訴えかけている。無言の『おねぇちゃん命令』が発令されている。
 数秒間だけ考えた。考えて、折れた。――――きっと、自分がなにを言っても無駄なのだろう。
「……今日だけ、だからな」
「にゃん!」
 結局、何だかんだ言った所で、弟は姉に、限りなく甘かった。――――この姉は、本当に嬉しそうな顔をするから困る。
 溜息を吐きながら、そんなことを思っていた。

――――――――* * *――――――――* * *――――――――* * *――――――――* * *――――――――

 ペンライトの光は闇夜をごく僅かに追い払い、その間隙を二人は歩いていく。
 夜間外出をするときには、いつも持ち歩くようにしていたペンライト。――――星を見に行くのが好きだった、父親の形見の品だった。
 一昔前の型のペンライトは、照らしてくれる範囲も、光量も心許ないので、足元を重点的に照らしながら、慎重に歩く。
「はるねぇ、大丈夫か?」
「にゃん。……っていうか、私は、ゆーにゃんよりは夜目が利くにゃん」
「……そっか」
 カタクリの群生地として有名な谷倉山の遊歩道は、どう見ても民家にしか見えない“星野自然村”の脇道から入っていく。
 動くものは何一つ視界に入らず、世界はただ二人しか存在していないようにさえ、思えてくる。
 道はコンクリートから土へと変わる。急勾配の道。風に揺れる木々の音。微かに香る、花の匂い。
 周囲の背丈の小さな木々が花を咲かせているはずだが、夜の闇に塗りつぶされて、その色彩を見ることはできない。
 頼りは、ペンライトの光と、自分の思い出だった。十日夜(とうかんや)をちょっと過ぎた月の明かりは、木々に遮られ、当てに出来ない。
 谷倉山。現地の人すらあまり知らないという地味な山。「そこがいいんだ」と言った父親。
 小さい頃から毎年、お盆で星野に来る度に父親に連れられて来た山道だったが、こうして自分から来るのは初めてだった。
 耳に心地よい静寂が拡がり、澄んだ空気を感じる。
「……ゆーにゃん、どこ行くにゃん? この山、進んでも何も無いにゃん?」
「……思い出の場所。俺にとって、大切な場所のひとつなんだ」
 はるねぇは、不思議そうに首を傾げたが、黙って付いてきてくれた。下駄が歩きにくそうだったので、少し、ペースを落とした。
 カタクリの群生地を抜け、右に。更になだらかな山の側面を歩き、右に。
 5分程歩いて、Uターンするようにして付いた場所は、父親が言うには「この山で唯一視界が開けた場所」らしい。
 古びた木のベンチ。遠くに見える、三峰山。僅かな、本当に僅かな高さの崖。下には民家の明かりが小さく見えた。
 ペンライトを消す。開いた夜空から星明りが届き、田舎の小さな舞台を弱々しく照らしていた。
「……っっ、ここは……」
 そう呟くと、はるねぇは小走りで古びた木のベンチに近づく。そして、愛おしむかのように、座る。呼ぶようにして、振り向く。
 星明り。涼しい夏の夜風。木々に澄まされた空気。虫の音。斜め45度の淡い笑顔。背景に、満天の星空。
 まるでドラマのワンシーンのような、全てが計算されたかのようなバランスに、自分は暫くの間、見惚れていた。
 夜風が髪を揺らし、微かな花の香りを運んだ。
 視界の先には三峰山が広がり、その上を夜空が限りなく埋め尽くしている。無数の白点を散らしたような星空に、夏の大三角形が煌々と輝いていた。

――――――――* * *――――――――* * *――――――――* * *――――――――* * *――――――――

 二人で並んでベンチに座り、空を眺めていた。しばしの沈黙の後、思い出したように、はるねぇが言った。
「……みのりがにゃ、言ってたにゃん。都会だと、空が見えにゃいって。……一杯、建物あるから、空がにゃ、狭いんだって」
 星野に来て三年。既に東京の空の記憶はあいまいだった。もしかしたら、ろくに見てもなかったのかもしれない。
 同じ空には違いないはずなのに、人の明かりは夜の色を変えていた。――――――それは何だか、物凄く勿体無い気がした。
「こんなに、綺麗、にゃのににゃ……」
 はるねぇは、静かに星空を見つめ続けている。その表情は、今までは絶対に見れなかった、あるいは見せることの無かった、寂しげな笑顔。
 自分も空を見上げる。麓から吹いた風に、いつか見た蛍が舞ったような気がした。
「静か、だにゃん……。私、この静けさが、結構、好きだにゃん」
「……ん。そうだな」
「田舎だけど、私、この場所が、大好き」
 はるねぇは、まるで夢を見ているかのような声で、話す。
「皆、一緒で、支えてて、暖かくて、優しくて……。“人”だけじゃにゃい“みんな”がいて……」
 都会では人が圧倒的に多いが、田舎には人以外の生物が沢山いる。きっと、周囲の生命の数は、田舎のほうが多い。
 ――それを感じたくて、無数の生命の息吹に包まれたくて。郷愁の根幹には、そんな意思があるのかもしれない。
「ゆーにゃんは? やっぱり、田舎より、都会が、好き?」
「どっちも。甲乙つけるものじゃないんだろ、きっと」
「……来た頃は、田舎、キライだったにゃん」
「そうだな。本当、あの頃は心底嫌だったんだよ。何でこんなダサい所に……って思ってた」
「ダサくにゃいにゃん」
「ん。ダサいかどうかなんて、きっとどうでもいいことなんだろうな。でも、その頃の俺はそう思えなくて……」
 はるねぇは、クスクスと、楽しげな笑い声を上げた。
「大変、だったにゃん?」
「悪かった。………こうして、今やさぐれていないのも、はるねぇのおかげだろ?」
「にゃ。…感謝、するにゃん」
「感謝してるから、今こうしてダメな姉の我侭に付き合っているんだよ」
「………うにゃ。ありがと、ゆーにゃん」
 そのまま、少しだけ会話が止まる。虫の音。風に揺れる木々の音。微かに香る花の匂い。柔らかい沈黙が流れていく。
「…………ねぇ、ゆーにゃん。手、繋いでいいにゃ?」
「…………ん」
 はるねぇは、左手をそっと伸ばしてきて、右手を握った。それは、交互に指を絡めた、いわゆる“恋人つなぎ”だった。
 冷たくて柔らかい、小さな手の感触。心臓が一度だけ強烈に縮んだ。自分の神経が全て右側面に移動する。
「……あの頃は、小指すら、繋げられ、なかったのににゃ。ちゃんと、仲のいい、姉弟に、なれたにゃん」
「……まぁ、約束したから仕方なく、な」
 戒めるように、強く手を握られた。その後、抱きしめるように、固く握られる。
「…………赤ちゃん、産むときにゃんかに、旦那さんが、手、握ったりするにゃん」
「…………いきなりな話だな」
「なんか、分かった、気がするにゃん。すごく、安心する……」
 はるねぇはそう言って、とても優しげに、そして幸せそうに、微笑んだ。
「……えへへ。なんか変なこと言っちゃったにゃ。ゴメンにゃ」
「……真顔で『安心する』だなんて言うなよ」
「照れた?」
「照れた」
 はるねぇは無音で笑う。握り合った手が少しだけ動いて、少しだけ外れて、どちらともなく握りなおした。
 たったそれだけの事が、頭のどこかを真っ白にしていく。
 しばしの無言の後、はるねぇは星空を眺めながら、小さく息を吐いた。
「…………流れ星、こないかにゃ…」
「……多分、そのうち流れると思う」
「…………本当にゃ?」
「あぁ、夏のこの時期って、色々な流星群の活動期なんだ。2日は山羊座、今日はみずがめ座、13日はペルセウス座、20日ははくちょう座、…ってな具合に」
「…………へー。詳しいんだにゃ」
 ――――星を見るのは、元々父親の趣味だった。自分も連れられて、一緒によく見てた。ここは、そんな場所の一つだった。
 星野に来た当初は、父親を思い出すので、そんな事忘れたかのようにしていた。――――でも、やっぱり、自分も星を見るのが好きだった。
「20日なら条件的にも良いんだけどな。……何か願い事か?」
「うん。………一杯、やりたいこと、あるにゃん」
「そっか。……例えば?」
 はるねぇは、少し考えてから、言った。
「……皆と、カラオケ、行きたい。思いっきり、はしゃいでみたいにゃん。ゆーにゃんの、友達も、一緒に」
「そうだな。飛び切り変なやつを連れてきてやる」
「旅行にも、行きたいにゃ。横浜の、みなとみらい。夜景が、すっごく、綺麗にゃんだって。見て、『うわー』って、言いたいにゃん」
「みなとみらいか……行った事ないな」
「一緒に、行けたらいいにゃん。……こっちは、二人で」
「はいはい。どこでも行ってやるから」
 はるねぇは、静かに微笑んでいる。なぜかは分からないが、その微笑が、気になった。
「文化祭、また、一緒に回りたいにゃ」
「ん。また全制覇するか」
「うん。今度は、みのりも、呼んでみたいにゃ。彼氏さんも、一緒に」
「確かに。あの神明さんに彼氏だなんて、正直信じられない」
 はるねぇは無音で笑った。
「みのりってば、お祭りの、後ににゃ……」
 言いかけて、途中で言葉が消えた。
「……? お祭りの後に?」
「……にゃんでもにゃいにゃん。うん」
 少しだけ、手を強く握られた。何故か、はるねぇは少しだけ恥ずかしがっているように見える。
「……何だかやりたい事、多いな。一杯お願いしないとな」
「にゃん。一杯、お願いするにゃん? 半分、お願いにゃん」
 二人で小さく笑う。お互いの小さな声は、森林に、そして星空に、静かに溶けていく。
「…………なんかまるで、私、明日にでも死んじゃうみたいだにゃん……」
「…………そんな事、言うなよ…………」
「…………ゴメンにゃん」
「いや、別にいいけどな」
 手が、強く、優しく握られた。
「……えへへ。何だかんだで、ゆ〜にゃん、やっぱり優しいにゃん」
「………………」
「ふふ。……いつまでも、仲のいい、二人でいるにゃん」
「……ん」
 姉弟ではなく、“二人”といったことが、少しだけ気になった。
「約束にゃん?」
「ん」
「返事はハイかイイエだけにゃん」
「……はいはい」
 はるねぇは、優しく微笑んだ。たったそれだけの事でも、「変わらないなぁ」と言いたいのだと、理解していた。
 一瞬、満月のイメージが浮かんだ。ついで、何故か満天の星空に流れる流星のイメージも。

 ――――遥か昔にも、こうして二人で、夏の夜空を見つめていた気がする。でも、一体いつ?

 遠くの木々が僅かに揺れた。麓からの風が、静かに、速やかに二人の下へ到達し、接触し、髪と浴衣を揺らして消えた。
 何故か、夏水仙のイメージが、浮かんだ。―――――なぜだかは分からないが、懐かしい匂いが、したような気がした。

  

  

5-2 告白

 どのくらいの時間が過ぎたのだろう。
 はるねぇが、少しだけ咳き込んだ音で、我に返った。
「はるねぇ、……大丈夫か? 今日はかなり歩いただろ?」
「…………だいじ。少し、眠たいけどにゃ」
「……眠ったら、背負っては帰れないぞ?」
「……じゃあ、眠る直前まで、いるにゃん」
「……帰ろうとした直後に眠ったら、おんなじことなんだが……」
 思わず溜息をつく自分を、はるねぇは笑顔で見つめる。意地の悪い姉のような、優しく見守る姉のような、そんな笑み。
 はるねぇは、そのまま空を仰いだ。二人で暫くの間、頭上に広がる星空を見つめていた。
「ねぇ、ゆーにゃん。空、綺麗だよ」
「ん」
 夜空を見上げると、視界の全てに星空が映る。たったそれだけで、果ての無い世界に触れる事が出来た。
 視線は無限へと向かう。遠近感は無くなり、畏敬すら感じる星の光の中を、魂だけが浮かんでいく。そんな強烈な浮力を感じる。
 繋いだ右手だけが、自分と地上とを、まるで錨のように、確かに繋いでくれている。そんな気がしていた。
 それはどこか心地よい、感触の無い、確かな感触だった。
「ねぇ、ゆーにゃん」
 隣から声が聞こえて、意識が地上に戻る。
 はるねぇは星を見ながら、さっきと同じ言葉を、初めての発見をしたかのように、言った。
「空、綺麗だよ」
「……ん」
 その空を形容するのに、二人にはきっと、それが限界だった。
 僅かな風の、音と感触。少し湿った空気。土と木と花の、微かな香り。繋いだ手の柔らかさ、ベンチの固さ、浴衣の擦れる、音と感触。
 暖かな感情。自分とそして隣から感じられる、体温。忘れたくない、瞬間。忘れがたい、記憶。
 更に数万・数億もの要素が、分子が、星が、感情が、織り合い繋がり出来上がった、奇跡の世界。
 どこにでもある、明日も、明後日もある、ただ二人が星空を眺めるだけの、そんな奇跡が、ここにあった。
 この世界を形容するのに、“綺麗”以外の言葉が出てこなかった。
「「…………………………」」
 しばらくの間、二人は星空をただ見つめていた。繋いだ手の事も、呼吸すら忘れて、ただ沈黙して星の光を見つめつづけていた。

 輝く星の下の、静かな夜だった。

――――――――* * *――――――――* * *――――――――* * *――――――――* * *――――――――

 肩にはるねぇの頭が触れて、首が痛くなるほど見上げ続けていたことに、やっと気付いた。
 手はいまだ握ったまま、寄りかかられている。右腕と肩に、はるねぇの体の重みを感じた。
「……寝るなよ?」
「…………だいじ」
 浴衣越しに肌が触れ、はるねぇが深呼吸したのが分かった。
「…………流れ星、来ないにゃ。ちょっと、残念にゃ」
「……まぁ、今日一番盛んな方角は、山の影だからな」
「…………そっか」
 はるねぇは「反対だったら、よかったにゃ」と言って、淡い笑顔を浮かべた。
「『星に願いを』って、ちょっと、ロマンチック、だにゃん?」
「願うのは“カラオケ行きたい”とか“旅行したい”とかやたら現実的な煩悩だけどな」
「…………じゃあ、“私を人間にしてください”にゃ」
「……いや、それ、どう返していいのか、リアクションに困る……」
「あれれ? ゆ〜にゃんの鼻、伸びてない?」
「俺がピノキオ役かよ……」
 会話は止まり、再度、心地よい沈黙が流れた。
 はるねぇは少しだけ体をずらし、更に密着する面積を広げた。
「…………くっつきすぎだろ」
「……最後くらい、甘えたいにゃ」
「最後って、別に今日明日にでも死ぬわけでもないだろうが」
「…………そうだにゃ。……でも、こんなことできるの、最後かも、しれないし」
「…………かもな」
「……ゆーにゃん、優しかったにゃ……」
「早速、過去形かよ……」
 右肩の接触面から、空気が漏れるだけの、声のない笑い声を聞いた。一本の髪が首元に当たって、少しくすぐったい。
 ほんの少しずつ、はるねぇの声は小さくなっていく。
「……私、明日から、頑張るにゃん。頑張れるにゃん」
「ん。よく分からんが、頑張れ」
 握る手に、少しだけ、強く、力を感じた。
「……もっと、気の利いた台詞が欲しいにゃん」
「……う〜ん。“雪見大福買ってやる”?」
 3秒考えて出した台詞に、はるねぇは息を吐き出して笑った。「全然気が聞いてないよ」と、声が聞こえた気がした。
「私、頑張るから。ちゃんと、買ってにゃ?」
「…………それでいいのかよ。単純だな」
「純粋、なんだにゃ」
 はるねぇの声が、更に細く、小さくなっていく。
「……なぁ、はるねぇ。もう……帰ろう。辛いんだろ?」
「……うん。でも、最後だし」
「また目が覚めたら、いくらでも話せるだろ?」
「ううん。明日になったら、きっと、言えないにゃ。今、今だから、いえること、あるにゃん……」
 そういって、はるねぇは星空を見上げた。淡い笑顔。その瞳に、星明りが僅かに反射した。
 ゆっくりと深呼吸。繋いだ手に少しだけ力を込めて、体を少しだけこちらに向ける。――――視線が、交差する。
「……今しか、言えないにゃ。だから、言うにゃん。こっち、むいて?」
 座る位置をずらし、はるねぇと向かい合わせになる。――――途端、はるねぇの頭が、ゆっくりと胸にくっついてきた。
 淡いシャンプーの匂い。細い肩が、限りなく接近した。
「……はる…ねぇ?」
「ゆーにゃん。私、お姉ちゃん、失格にゃんだにゃ」
 静寂の中ですら、微かにしか響かない声。
「……私、この半年くらい、ずっと、ゆーにゃんの、事ばかり、考えてて……」
 はるねぇの右手が、ゆっくりと浴衣の端を握った。
「……私、本当に、駄目な、お姉ちゃん、なんだにゃ……」
 そう語る表情は、胸に隠されて見えない。
「……ゆーにゃんが、誰よりも、かっこよく、見えちゃうし……」
 浴衣の裾が、更にぎゅっと掴まれた。繋いだ手にも、力がこもっている。
「……一緒にいると、ドキドキするにゃん……」
 伝えられる感情に、何も言えない。心臓の鼓動だけが、強烈に高まっていく。
「……これじゃ、いけにゃいって、いつも、思ってて……。……でも、どうにも、にゃらにゃくて……」
 はるねぇの声は、急激に小さくなっていった。恥ずかしさからなのか、そうじゃないのかも、分からない。
「……ほんと、ゴメンにゃ。私、お姉ちゃん、失格だにゃ……。……ゆーにゃんの、こと。弟として、見れない、にゃん……」
 はるねぇの声が、音の一つ一つが、意識を真っ白にしていく。
「……ゆーにゃん。……私にゃ、私――――」
 その決定的な言葉は、音にならず、聞こえることはなかった。
 それでも、音のないその言葉が、その意思が、その感情が、分かった気がして。
 その言葉に返したい、何物にも変えがたい、強い感情があって。

 繋いだ手を離し、両手を、はるねぇの帯にそって、回した。――――――周りの音が聞こえなくなる。
 顔と顔が自然に向き合い、お互いの視線が絡まる。顔が近づいて、耳の奥からキーンと言う音が聞こえる。頭が真っ白になる。
 視界にはるねぇの顔があって、それ以外は見えなくて。ただ進むべき方向性だけがあって、更に近づいて。
 そのまま、自然と目が閉じられる。そして、唇が、――――――。
 その、永遠のような一瞬の時間の後、お互い、相手の表情を確認する。そして、再び目が閉じられ、――――――。

 その、一瞬のような永遠の時間を、手の中の柔らかさを、淡い香りを、そして、この温もりを、自分はいつまでも忘れないと、思った。

――――――――* * *――――――――* * *――――――――* * *――――――――* * *――――――――

「……何か、照れるにゃん」
「……ん」
 星野橋の上。虫と風のみが鳴る帰り道に、一人分の足音が響いていた。橙色に輝くランプが、二人の一つになった影を、伸ばしていく。
 山間の夜風が優しく吹き抜けた。頬に涼しさを感じ、ランプの光に髪が少しだけ踊った。
「これで、明日から、頑張れるにゃん」
「ん。よく分からんが、頑張れ」
「……今度は、もっと、愛のある、言葉が、欲しいにゃん」
「あー……。……えーっと……」
 頭の中に、何だか映画にでも出てきそうな恥ずかしい台詞ばかりが浮かんできて、そのあまりの似合わなさに、考えるのを放棄した。
「ゆーにゃん、顔、真っ赤だにゃん」
「……あー、もう。変なことを要求するな!」
 はるねぇは息を吐いて、背中の上で幸せそうに笑う。
「ゆ〜にゃん、可愛い」
 変わらない自然に囲まれた世界を、少しだけ変わった二人が、歩いていく。
 山間の夜風が、まるで二人を祝福してるかのように、優しく吹き抜けていった。
「…………あっ。流れ星……」
 その声に立ち止まって、空を見上げた。でも、自分は見ることが出来なかった。幾千の星明りの下、二人のまわりを、山間の夜風が優しく吹き抜けた。
「願い事、叶うといいな」
「…………」
 その言葉に返事はなく。はるねぇは、そのまま背中で寝てしまっていた。
「…………おやすみ、はるねぇ。また明日な」
 ――――――結局伝えられなかった言葉を、明日の朝、一番に伝えてやろうと思った。
 明日も、明後日も、ずっと、ずーっと、伝えてやろうと、心に誓った。

 ―――――しかし、それが叶うことは、なかった。

 翌朝、少し遅めに起きてみると、はるねぇの部屋はもぬけの殻だった。
 綺麗にたたまれた布団。そして、その上にはホワイトボード。
 ボードに残された、丸っこいが丁寧で、少し震えた4文字。

 『さよなら』

 八月七日。和泉家から、はるねぇの姿が消えた。 

  

  

5-3 運命

 ――――――結局伝えられなかった言葉を、明日の朝、一番に伝えてやろうと思っていた。
 明日も、明後日も、ずっと、ずーっと、伝えてやろうと、心に誓ったはずだった。

 ―――――しかし、それは叶わなかった。叶える事が、出来なかった。

 朝、少し遅めに起きてみると、はるねぇの部屋はもぬけの殻だった。
 机や箪笥、MDコンポなどが、いつもと変わらぬように、ある。ただ、その部屋にいるべきはずの――――――はるねぇの姿だけが、ない。
 まるで、チェックアウト直前の旅館のように、片付けられた部屋。昨日までは、確かにいたはずなのに、――――――はるねぇが、いない。
 綺麗にたたまれた布団。そして、その上にはホワイトボード。そこに残されていた、丸っこいが丁寧で、少し震えた『さよなら』の4文字。

 ……『さよなら』……? 『さよなら』って、一体何が? ……あぁ、雪見大福を買ってこなきゃ。……待ってろ、今、買ってきて………。

「……城くん? 結城くん、大丈夫?」
 詩穂さんの声に、我に返る。
「…えっ、あ…詩穂さん! はるねぇ見ませんでしたか!?」
「……はるねぇなら、一時間ほど前に……」 
「?!! ちょっと、出てきます」
「あ、待って、結城君!」
 詩穂さんの声を振り切るようにして、玄関を飛び出した。
 ――――どこにいったんだよ、はるねぇ。皆とカラオケに行くんじゃなかったのかよ。みなとみらいの夜景を二人でみるんじゃなかったのかよ………………。

 はるねぇが行きそうなところを、思い出し、片端から回っていく。…………いつも川遊びをしに行った永野川、色々な思い出のある星野橋付近――――――。
 ――――文化祭、また一緒に回って、全制覇するんだろ。まだ、雪見大福、買って来てやってないんだぞ。まだ、気持ちを、伝えてないんだぞ………………。

 ほんの僅かなことでも、可能性がある場所なら、探しにいく。…………「内緒のお昼寝スポット」といっていた星野遺跡、昨晩星を見たベンチ――――――。
 でも、はるねぇは、どこにもいない。
「……! そうだ、携帯……」
 慌てて、はるねぇの携帯に電話をかける。『――――は、電波の届かないところか、電源が入って――――』
「……っ、くそ!」
 ベンチの脇に立ち、荒い息をしながら、思わず悪態をつく。
 昨晩の、あの、一瞬のような永遠の時間を、手の中の柔らかさを、淡い香りを、温もりを、まだはっきりと思い出せるのに。
 昨晩伝えられなかった言葉を、朝一番に伝えてやろうと思ってたのに。明日も、明後日も、ずっと、ずーっと、伝えてやろうと、心に誓ったのに。
 ――――――こんなにも、はるねぇを求めているのに。一体、どこに行ったんだよ………。
「はるねぇーーー!」
 やりきれない気持ちをぶつけるかのように、空に向かって叫んだ。――――ここに居ない、どこかにいるはるねぇに、届けとばかりに。

――――――――* * *――――――――* * *――――――――* * *――――――――* * *――――――――

「…………ただいま」
 昼過ぎになって、いったん帰宅した。あのあと、はるねぇを探しに駅前のほうまで行ってみたのだけれど、やはり、はるねぇはどこにもいなかった。
 ――――ひょっとしたら、もう家に帰ってきているかもしれない――――
 ありえないことだと分かってはいても、万が一と思い、限りなくゼロに近い可能性にすがって帰ってきたのだ。
「詩穂さん、はるねぇは」
「……結城くん」
「やっぱり、帰っていないんですね」
 詩穂さんは、どこか辛そうな目をしているだけで、何も答えてはくれない。
「俺、もう一度探してきます」
 また探しに行こうと踵を返す。――――目の前に、立秋さんが立っていた。
「結城くん。はるねぇの、好きにさせてやってくれないか?」
「……探しに行くな、ということですか」
 立秋さんは、悲しそうに頷いた。
「………このまま、そっとしてあげてくれないか」
「何故です? なぜ探しちゃいけないんですか!」
 思わず、声が荒くなる。――――こんなことしている間に、はるねぇは……。そう思うと、気持ちにゆとりがなくなる。
「…………はるねぇが、望んでいないからだよ」
「!? なぜそんなことが言い切れるんですか!!」
「…………………………」
 その問いに、立秋さんは答えてくれない。
「なぜなんですか!」
「…………そういう、時期だからよ」
 何も言わない立秋さんに代わって、後ろの詩穂さんが答えた。その答えを聞いた瞬間、何かが弾けた。
「っ! そういう時期、そういう時期って、一体どういう時期なんです!? 一体皆、何を隠しているんですか!!」
 詩穂さんが、静かに答えた。
「……はるねぇが、結城くんに伝えていないなら、私たちから伝えること、伝えられることは、何もないわ」
 やるせなさが襲う。「お前なんか、所詮他人だ」と言われたような気がした。
「…………っっ」
 悔しくて、情けなくて、寂しくて。――――そのまま、家を飛び出した。
 後ろからかかる言葉は何もなくて。――――それが余計に、悲しかった。


――――――――* * *――――――――* * *――――――――* * *――――――――* * *――――――――


 飛び出してみたものの行くあても無く、星野遺跡の近くの星野橋の上で、なんとなく溜息をついた。
 橋の袂に寄りかかる。その下には、永野川がゆったりと流れていた。――――川のせせらぎ、蝉の大合唱。昼の喧騒が辺りを支配している。
 ――――この橋の上で、色々なことがあったなぁと、ぼんやりと考えた。………そういえば、昔、神明さんにはるねぇのことを聞いたのもここだったなぁ。
 と、そこまで考えて、思い出した。――――――そうだ、まだやれることがあった。はるねぇの親友の、神明さんなら、ひょっとして……。
 携帯のボタンを押すのももどかしく、慌てて神明さんに電話をした。
 ――――1コール、2コール、…でない。どうしたのだろう? いや、あせっちゃ駄目だ。
 ――――5コール、6コール、…『もしもし?』! でた!!
「結城君。電話かけてくるの遅いよー?」
 久しぶりの神明さんは、開口一番、そう言い放った。……いや、遅いって、一体……。
「午前中のうちにかかってくると思ったんだけどなぁー。……ひょっとして、パニクってあちこち探してた?」
 ニヤニヤと笑っている神明さんの様子が、目に浮かんだ。……いや、まぁ確かに、その通りなんだけど……。
 相変わらずの毒舌ぶりに、どっと疲れが出たような気がした。その分、変な力みが取れたような気がする。……やっぱり叶わないなぁと、心から感謝した。

「で、用件は、はるねぇの件ね?」
 何もいわないうちに、神明さんはそう切り出した。
「はい……今朝方、はるねぇが居なくなりまして……」
「うん、それは知ってるよ。『さよなら』って、ホワイトボードに書置きがあったんでしょ?」
「なぜ、それを……」
「だって、はるねぇがそう言っていたもの」
 さも当然、といった調子で、神明さんは言った。
「?! 話したんですか、はるねぇと」
「うん。今朝ね。『今、家を出て来た』って言ってたよ」
「それで、その他には何か言ってませんでしたか?」
「その他?」
「例えば、これから何処に行くとか……」
 神明さんは、電話口の向こうで、大笑いをした。
「いや、それ例えになってないよ。聞きたいことはその事なんでしょ? 愛されてるねぇ、はるねぇは」
 思わず赤面してしまった。
「……からかわないで下さい。それより……」
「ゴメンゴメン…………ねえ、結城くん?」
 先ほどとは、打って変わってまじめな声。
「昔、中学生の頃……はるねぇと喧嘩した時のこと、覚えてる?」
「…………はい。覚えています」
「あの時、私、言ったよね。『はるねぇは、捨てられていた』って。その理由、分かった?」
「理由……ですか」
「そう。理由」
 あのときの会話を思い出してみる。確か――――
「あまりに“人間”に似すぎているが為に、捨てられてしまう、でしたっけ」
「そう。その捨てられる理由。何で人間に似すぎていると、捨てられなくちゃならないのかな」
「………そういえば、そうですね」
「…はぁ……。ねぇ、結城くん?」
 神明さんは、心底呆れたといった様子で、話し始めた。
「いつまでも、はるねぇに甘えてばかりいるのも、どうかと思うよ?」
「いや、別に甘えてなんか……」
「甘えてるよ。相手のことも知ろうとしないで、自分の要求だけ叶えて貰おうとする。――――本当に、甘えてないって、言える?」
「…………」
「まぁ、別にどーでもいいけどね、そんな事。――――ねぇ、結城くん」
「……なんでしょう?」
 神明さんは、「恋する少年に、特別に、教えてあげる」と前置きをして、その理由を教えてくれた。
「何で人間に似すぎていると、捨てられちゃうのか。…………それはね、“人猫”の寿命が、12〜18歳位までしか無いからなんだよ」
「…………えっ?」
「だから、寿命。生活環境や個体差なんかはあるらしいけど、それでも、どんなに頑張っても、18歳位までしか生きられないんだって」
 予想もしなかったことに、頭がしびれたような感じがした。…………それじゃあ、はるねぇは……。
「どうも、“猫”としての特徴が、寿命にも影響を及ぼしているようなんだけど。とにかく、どう頑張っても、人と同じ時間は生きられない」
「…………」
「どんなに可愛がっても、どんなに愛しても、12〜18歳位までしか一緒に生きられない。それって、辛いよ」
 神明さんの声が、一瞬、震えた。…………そうか。神明さんは、そのことを知っていてなお、はるねぇの親友であり続けたのか。
 神明さんだけじゃなく、詩穂さんも、立秋さんも、それを知っていてなお、はるねぇを「家族」として迎え入れていたのか。
 自分が「甘えている」といわれても、仕方がない気がした。自分が、すごく情けなかった。
「ねぇ、結城くん?」
「……はい」
「はるねぇのこと、スキ?」
「はい。……まぁ、まだ本人には、はっきりと伝えられてないんですけどね」
 この言葉に、神明さんはこう言った。
「どんまい」
 あの時と同じように、満面の笑みを浮かべているに違いない。――――――そう確信できるほどに、清々しい返事だった。
 やっぱり叶わないなぁと、心から思った。――――自分も、神明さんに負けないぐらい、強くなろう。そう心に誓った。