ねこのの。

 

4章:廻る歯車

   

4-1 予感

 星野で迎える、三度目の大晦日の夜。布団から起き上がったはるねぇと二人、お祖母さんの打った蕎麦をすすっている。
「うー……。ゴメンにゃ、ゆーにゃん」
「病人なんだから気にするな。はるねぇは黙って蕎麦を食え。四の五の言わずに食って寝れ」
 冬蛍を見に行ったあの日以来、はるねぇは何かと風邪を引くことが多くなった。――――あの後のテストも、当然、風邪で欠席をした。
 はるねぇの病気の姿なんか見たことがなかったから、正直、かなり心配した。しかし、詩穂さんいわく「……まぁ、そんな時期…だしね」だそうだ。
「やっぱり、おばーちゃんの打った蕎麦は、美味しいにゃん。……けほっ けほっ 」
 確かに、風邪が流行る時期ではあるだろう。しかし、だからといって、心配なのは心配である。
「無理するな。食えなかったら、俺が食うから」
「うん。……でもにゃ、これ食べないと、年を越した気がしにゃいんだにゃん」
「……そんなものか?」
「うん……けほっ こほっ 」
 答えのあと、ひとしきり咳が続く。――――本当に、無理して起きてまで食べたいものなのだろうか。自分には理解できない。
「はるねぇー! ゆうくーん! 降りてこー! 一緒にコタツはいんべよー!」
 そんな時、下の階から伯父さんの声がかかる。
「…………本当だと思うか?」
「……うにゃぅ。どうだろう。……一年の締めくくりの筋トレの気がしないでもにゃいにゃん」
「…………そうだよなぁ…………」
 二人でしばし悩んだ。年末ぐらいは、ビキニパンツを拝まずにすませたい。――――――年始は、もっと嫌だけど。
「……あ、でも、お父さんにゃ、初めはあんにゃんじゃ無かったんだにゃ。ごく普通の人だったんだにゃ」
「初め?」
「うん。私が、この家に来た頃にゃん」
「……あー。そうだったんだ?」
「うん。元々筋肉質ではあったみたいにゃんだけどにゃ。でも、今みたいに、その、パンツ一丁で筋トレ、みたいな事はなかったにゃん」
 ――――そういわれて、その頃の伯父を想像しようとしてみる。普通の伯父さんの姿、ねぇ。
「でも、いつの間にかあんなことになってたにゃん。気付いたら、それが当たり前のようになってたにゃん」
「…………なんか、普通の伯父さん、ってのが想像つかない」
「…………一体、にゃにがきっかけだったのかにゃぁ」
 しばし、伯父がビキニパンツに目覚めた(?)きっかけを考える。
 しかし、その頃の和泉家の様子を知らない自分がいくら考えても、きっかけなど分かるはずもない。――――というか、こんなこと考えてても、無駄じゃないか?
「結城くーん。はるねぇー。一緒にテレビでも見ないー?」
 今度は、詩穂さんの声だ。
「……詩穂さんのお誘いなら、大丈夫だな。――――――はるねぇ、立てるか?」
 詩穂さんには「これ食べたらいきまーす」と返事をしてから、はるねぇに声をかける。
「さすがにそんなに重病じゃにゃいにゃん。ゆ〜にゃん、優しすぎだにゃん。えへ〜」
「はいはい。さっさと蕎麦食え」
「うにゃん」

 大晦日の夜。一年を終えようとする空気に、ごぉーん、ごぉーん、と、遠くから除夜の鐘の音が響いていた。

 大晦日。おおつごもり。一年最後の、月が隠れることを意味する日。両親がいるはずの、見守ってくれているはずの月がないとされる日。
 この一年の終わりを告げる鐘の音が、今までの二人の関係の終わりを告げる、始まりの音だったとは、この時はまだ知る由もなかった。

――――――――* * *――――――――* * *――――――――* * *――――――――* * *――――――――

 年が明けた。蕗の薹(ふきのとう)が芽吹き、桜の花が散っていく。やがて、紫陽花の季節になった。
 はるねぇの風邪は、弱く慢性的なものとなり、一向に完治の様子が見られなかった。いつも咳き込んでいるために、声が嗄れてしまっている。
 一度寝込んでしまうと、回復までに時間がかかようになった。そのため、一ヶ月に二・三度は、学校を休むことになってしまう。

「〜う゛〜」
「唸るな。ってか、制服着るな。休んでろ」
「やっと衣替えしたのに、私だけこのまま死ぬんだぁ……」
「嘆くな。ってか、死んでもそんなこというな」
「ゆーにゃん。ゆーにゃんのことは死んでも忘れないよ……」
「諦めるな。ってか、俺にそんな言葉を聞かせるな」
「ねぇ、ゆーにゃん。実は「喋るな」」
「「………………」」
「うなぁー! 寝てるのに飽きたにゃー!」
「暴れるな!」
 このときの風邪は、結局治るまで1週間もかかった。何か変だ。妙な胸騒ぎがしてならない。
 詩穂さんもはるねぇも、「まぁ、……そんな時期…だから」と言ってはいるが、本当にそれだけなのだろうか。
 たしかに、季節の変わり目なんかには風邪も引きやすいだろう。でも、本当にただの風邪なのだろうか? そんな疑問が拭えない。

 ――――――ジメジメと降り続く梅雨空のように、心の中の暗雲は、いつまでも晴れることはなかった。

  

  

4-2 病床

 窓の外に、咲き誇る花々が見える。
 眩しい日差しの中、それに負けないよう、鮮やかにそして力強く咲いている。
 蝉の声。風鈴の音。扇風機の鈍い駆動音。風に乗って微かな子ども達の声が届く。
 ――――また、夏がやって来た。

 くいくいっ、と軽く服の袖を引っ張られる感触。見れば、はるねぇが上目遣いでこちらを見つめている。
「ん? どうした、はるねぇ?」
『ひま』
 床に就いているはるねぇの手には、丸っこいが丁寧で怠惰な二文字が並んでいるホワイトボードが。
「暇って言われてもなぁ……。おとなしく寝てろって」
 はるねぇは少し不満そうにしながらも、頷く。そして、窓の外の景色をぼんやりと眺める作業へと戻っていった。

 最近のはるねぇは、床に臥せる事が多くなっていた。別に具合が悪いわけではないのだが、なんとなく「疲れたような感じ」がするのだとか。
 以前のように元気な時もあるのだが、月の半分以上は、こうして横になっている。

 それに合わせて、二人の生活も少しだけ変わった。
 まず、一階にはるねぇの部屋が出来た。「縁側付近のほうが、庭の景色がよく見えるだろうから」という理由からである。
 これは昼間一人になってしまうことが多いはるねぇが、トイレ・台所等へ行きやすいようにといった側面をも含んでいる。
 また、「大声で話すのは、ちょっとつかれる」というので、会話に筆談が混じるようにもなった。
 元気な時はそうでもないのだが、臥せっている時などには、かすれたような音量しか出ないときもある。
 そんな状態なら、文字を書くのも疲れるのでは…、と思うのだが、「確実に伝えられるのなら」と携帯用ホワイトボードを利用することになった。
 その他、頷く・指差す・微笑む等のジェスチャー。どうしても伝えにくい時にだけ、耳打ちするようにして、音声で話すようになった。
 ――――――はるねぇは、どんな気持ちなのだろう。ふとそう思い、はるねぇを見る。
 はるねぇは、左手で袖を掴み、離さず・話さないままに外を見つめていた。
「…………?」
 視線を感じたのだろうか。「何?」という感じで、見つめ返してきた。
「……いや、何でもない。邪魔したな」
「……………! ………」
 はるねぇは何かを思いついたようで、ホワイトボードを書き出した。
「……? はるねぇ、どうしたんだ?」
『しりとり』
 ずいっと突き出されたホワイトボードには、丸っこくて丁寧だけど、今にも跳ね回りそうな四文字が並んでいた。
「…………何故?」
『ひまにゃー!!』
「あー、はいはい。いいから大人しくしてろって」
『だいふGO』
「――――いや、GOって…。一体どこに行くんだよ」
『ないふですまっち』
「あの世に逝ってどうする」
『にらめっこ』
「…………楽しいのか?」
 そういいながら、はるねぇの瞳を覗き込む。と、ほんの1・2秒程で、はるねぇは顔を赤らめた。
「…………いや、照れてどうする」
 自分もはるねぇにつられて照れくさくなってしまい、つっと顔を逸らした。
 くいくいっ、と再び袖を引っ張られる感触。
『メールする』
「ん。……ほら、携帯」
 はるねぇは、ゆっくりと、しかし確実に文字を打ち込んでいく。――――相手は、多分神明さんだろう。
 神明さんが引っ越していってから三年になるが、今でもこうして連絡を取り合っているのだから、本当に仲が良いのだなぁと感じる。

 蝉の声。風鈴の音。扇風機の鈍い駆動音。風に乗って微かな子ども達の声が届く。
 眩しい日差しの中、それに負けないよう、鮮やかにそして力強く咲いている向日葵。

 一緒に冬蛍を見てから、早くも半年が過ぎた。あのときから始まったはるねぇの体調は、いまだによくならない。


――――――――* * *――――――――* * *――――――――* * *――――――――* * *――――――――


 夏休みに入った。はるねぇの体調は、相変わらずよくならない。――――いや、風邪を引いたりはしていないのだから、悪くはないというべきなのだろうか?
 ただ、相変わらず寝たり起きたりの繰り返しだった。この頃では、眠っていることも、多くなった。

 今日のはるねぇは比較的元気だったので、立秋さんと一緒に3人で永野川の中流に川遊びにいった。
 水流が心地よい音をたて、浸かった足首を爽快に冷やしていく。
 夏の強い日差しは木々の葉でさえぎられ、僅かな木漏れ日となって差し込んでいる。
 遠くそして近くに聞こえる蝉の鳴き声。――――そして、はるねぇの笑い声。
 久しぶりの川遊びに、はるねぇはとても楽しそうだったし、そんな様子のはるねぇが見れて、自分としても、とても楽しかった。

 その日の夜。祖父と伯父さんは、晩酌のし過ぎで早々にダウン。はるねぇも、昼間はしゃぎすぎたとかで既に寝ている。
 詩穂さん、祖母さん、立秋さんと自分の4人は、居間から台所へと移動してお茶を飲んでいた。
 僅かに響く虫の音。網戸の先には、夏の夜空が広がっている。
 ――――多分、星空を見上げれば、猫の爪のような月と土星・火星のランデブーが楽しめるはずだ。ひょっとしたら流星も見られるかもしれない。
 柱時計の音が10時を告げた。静かでゆったりとした雰囲気の中、それぞれにくつろいだひと時を過ごしていた。
「ねぇ、結城君?」
「なんでしょう」
 詩穂さんは、微笑みながら話し始めた。
「結城君。はるねぇのこと、ありがとうね」
「いえ、別にそんな……」
「ううん、いわせて。あのこだって、私達だって、本当に感謝しているのよ」
「……?」
 見渡せば、祖母さんと立秋さんも、笑顔で頷いている。
「……はるねぇは、僕がこの家に連れて来たんだけど……あの頃はまだ心を開いてくれなくてねぇ」
 立秋さんは、遠くを見つめるような目をしていた。
「食事はもちろん、お風呂も、寝場所だって、決して一緒にしようとはしなかったんだ」
「……そうだったんですか」
「まぁ、食事は親父のおかげで、じきに一緒に食べるようになったんだけどね」
「……伯父さんの?」
 一瞬、脳内にビキニパンツ一丁の伯父さんの姿が浮かんだ。――――そういえば、最近はあまりビキニ姿を見ていない気がする。
「あの馬鹿息子があげな格好をしたいと言い出したときには、目を剥いたが……まぁ、今となっては、いい思い出じゃな」
「……?」
「『今日から筋肉魔人を目指します』といってきたときは、何を言い出すのかと思ったんじゃが……」
「ふふふ。はるねぇが始めて自分に関心を示してくれたのが、腕の太さだったのよ。だから、『全身を筋肉にすれば、もっと打ち解けてくれるかも』ってね」
 祖母さんの後を受けて詩穂さん。居間の方を見ながら、「全く、馬鹿なんだから」と呟く。
「それ以外にもね。『家族に一人ぐらい変人がいたほうが、はるねぇも気兼ねしないかもしれない』って」
「……そんな理由があったんですか」
「うちに来た当初は、やたらと“人猫”であることを気にしていたしね。“人間”じゃない自分が、家族になんかなって良いのかってね」
 立秋さんは、そういうと、苦笑した。
「まぁ、そういった訳では、親父の狙いは半分は当たったわけだ。食事だけは一緒にとるようにはなったからね」
「お風呂や寝る場所が一緒になったのは、ゆうくんが来てからじゃな」
 そういうと、祖母さんはふっと微笑んだ。詩穂さんが後を続ける。
「甘えだしたのも、ね。……ねぇ、結城君?」
「はい、何でしょう」
「あのこ、結城君には『お姉ちゃんめーれー』だ何ていって甘えているけど、立秋にはね……」
「……!! 母さん、それは…」
 慌ててとめようとする立秋さんを気にも止めずに、詩穂さんははるねぇの真似をして見せる。
「『たつにぃ〜。お・ね・が・い・にゃん?』――――って言ってるのよ?」
 少し俯きかげんで上目遣い。眼をウルウルさせながら、“にゃん”で僅かに右に首を傾げる。
「…っっっ! ちょっと親父達の様子を見てくる!」
 そういうと、立秋さんはこの場を逃げ出した。
「ふふふ……。あのこがこんなにも打ち解けてくれる様になったのも、結城君がこの家に来てからなのよ。……だからね、本当に感謝してるのよ」
「…………はい」
「今、あのこはあんな状態だけど……。これからも、よろしくね」
「はい、それはもちろん」
「さすが恋人同士。…若いっていいのぉ」
 祖母さんが妙なことを言い出す。
「…? 恋人同士? 誰と誰がですか?」
「ほっほっほ。何をいまさら。隠さんでもええ」
「いや、隠すも何も……」
「巴波川(うずまがわ)の蛍を自転車で見に行ったんじゃろ? なら告白したんじゃろ?」
「……いまいち、話が見えないのですが」
「もう、義母さんったら……」
 詩穂さんが、苦笑いをしながら説明をしてくれた。

―――『かつてはあの巴波川にも生息していた蛍達。
    幸来橋の橋の柱に無数に止まり、
    “蛍柱”が出来るほどいたそうだ。

    みつわ通りにある片岡写真館のお爺様が
    奥様となる女性と自転車でデートした際
    この蛍で彩られた巴波川で告白したと言う』―――

 そんな当時の蛍をイルミネーションで再現したのが、あの冬蛍なんだそうだ。
「……なるほど。だからはるねぇは、あの時…」
 やたら自転車にこだわっていたわけが分かった。
「まぁとにかく、これからもあのこの事、よろしくね」
「はい、もちろんです」
 いろんな思いを込めて、頷く。

 静かに、お茶を飲む3人。窓から吹き込む風に、一時的な涼しさを感じられる。
 虫の音、柱時計が時を刻む音。はるねぇと出会って、3年が過ぎた。

 夏の夜は、静かに、しかし確実に更けていく。

 八月が近づいていた。

  

  

4-3 夏祭

 蔵の街は、本日、最高気温35度を記録した。
 カーテンをつけない窓の外には、夏の青が盛大に拡がっていた。
『おはよーにゃん』
 そんなメールを受け取ったのは、夏期講習の最中だった。
 震える携帯電話をすばやく開き、教師の視線に対し机を盾にしてメールを読み、僅か2秒で閉じる。
 ――――返信は授業の後にしよう。今すべきことはきっと、熱力学の公式を理解し・覚えることなのだから。
「……しっかし、川島は真面目だなぁ」
 若い物理教師がチョークを持ちながら苦笑している。よくあることなので、自分は首を傾げて少しだけ笑った。
「川島ぐらいだぞ、俺が“もうちょい遊べ”なんて言うのは」
 参加者が一名の集中講義も、今日で8日目。教師が外を指差したので、視線はそのまま外へと向いた。
 どこまでも続く夏空の青の下、ガラス窓でも遮れない程に、蝉が高らかに声を鳴らしていた。
 それとほぼ同時に、ガラスでは遮れない電波が、携帯電話を震わせた。――――今度は、バレた。
「お。誰からのメールだ? 彼女か?」
 まるで悪戯っ子のように目を輝かせながら、『早く見ろ』と促している。
「…………姉からです」
『ねぇねぇ、今度の日曜って夏祭りなんだにゃー。絶対行こうね! この夏サイコーの思い出を作るにゃん。冥土の土産ってヤツだにゃん』
 ――――おいおい、死ぬ気かよ。 思わず、心の中で突っ込んだ。――――まさか、“サイコー”と“さいご”をかけた親父ギャクなんかじゃないよな?
「何だった? 『買い物行ってこい!』か?」
「デートのお誘いでした」
「…………お姉さんと?」
「死ぬ前に、夏祭りへ行って思い出を作りたいそうです」
「…………川島。……大丈夫か? 暑さにやられたか?」
「空調の効いた教室でですか? いや、困ったことに、嘘ではないんですが……」
 さらに、携帯電話が震えた。
『今日は3時ちょうどに帰ってくるにゃ! お姉ちゃんめーれーだにゃん!』
「……命令だそうです」
 内容を省略して伝えた。物理教師は呆れ気味でチョークを持ち直す。再び、黒板に公式が並び始めた。
「……まぁ、気を取り直してだな。えーっこの公式は……」
 説明を耳に入れながらも、何の気なしに窓の外を眺める。
 格子状の窓の先に拡がる、真夏の青。十万ルクスの太陽光線が、世界に明確なコントラストを提供しているのを、ぼんやりと眺める。
 夏の低空をヘリコプターが通過していく。
(――――3時ちょうどか。おやつでも作ってるのか?)
 プロペラ音が教室を支配する中、そんなことをぼんやりと思った。


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 八月六日の夜。『とちぎ夏祭り2006』の二日目。

 この日のために新調してもらった浴衣に袖を通すと、乾燥剤の香りを感じた。糊の利いた袖口が心地よい。
 スカートをはいたかのような感触に足が落ち着かないが、夏祭りといえばやはり浴衣だろう。――――第一、メイド服と違いれっきとした男物なのだ。
 そう結論付ける。
「じゃーん ――――見て見てー!!」
 やっと着付けを終えたはるねぇは、朝顔柄の浴衣を着込んでやたら上機嫌だった。
 サイドテールが子どものように跳ね、しっぽが楽しげに揺れている。髪留めも、いつもとは違う。
 その姿は弟という観点を除いても、なかなか似合っていると思った。帯の背中の蝶々結びが可愛らしい。
「似合うー?」
 くるっと一回転。ふわっと袖が空気を泳ぎ、
         ゴッ! ――――――――額を柱にぶつけた。
「……うにゃううぅぅ……」
「……馬鹿」
 頭を抑えてうづくまるはるねぇに、思わず溜息をこぼす。
「……いくら調子が良いからって、気を付けろよ」
「……」
 あまりの痛さに、はるねぇは返事もままならないようだ。……と、思いきや、はるねぇはやおらホワイトボードを口元に掲げた。
『いたいー』
 思わずデコピンをかましたくなるのを、必死で押さえた。――――多分、痛いのは本当なのだから。
「……そんな馬鹿やれるようなら、大丈夫だな」
「……うぅ〜。ゆーにゃんが冷たい……」
「おーい、はるねぇー、結城くーん、準備は出来たかーい」
 外で立秋さんが呼んでいた。夏祭り会場は栃木駅前の大通りで行われる為、そこまでは車で行くことにしてある。
「おっ。はるねぇ、行くぞ。腹減ったし」
「うにゃん!」
 祭りに行く二人だけ夕食を抜いている。――――会場で色んな物を食べたいから……という考えだった。頭の中では既に、何を食べるかをシミュレートし始めている。
 はるねぇを引っ張るようにして、外にでる。晴れた夜空には、無数の星が輝いていた。――――ひょっとしたら、流星が見られるかもしれない。そんなことを一瞬だけ思った。
 もちろん、祭りの会場では見ることはかなわないだろう。…………見る暇もないだろうし。
「「しゅっぱーつ!!」」
 満天の星空に二人の声が響き、消えていく。

――――――――* * *――――――――* * *――――――――* * *――――――――* * *――――――――

「よし、食べるにゃー!」
「会場到着の第一声がそれかよ」
 祭りの会場は、沢山の人でごった返していた。駅前通を完全に歩行者天国とし、道路の端には所狭しと出店が並んでいる。鉄板上で焼ける肉の音が胃を刺激する。
 中空には無数の提灯。出店のライトなどの光源に照らされて、蔵の街の夜は祭り独特の熱気に包まれていた。
 延々と流れる和太鼓や笛の音が、否が応でもテンションを上げていく。思わず口元が緩む。
 はるねぇの視線は既に出店のほうに向いている。わくわくと輝かせた瞳に、提灯の明かりが映える。
 浴衣の女性、ハッピを着込んだ若者。ビール片手の赤ら顔のオジサン達に綿菓子を手に走り廻る子ども達。
 溢れ返っている人並みにはぐれない様、はるねぇに手を差し出しながら言う。
「さすがに腹減ったな。何から食おうか」
 詩穂さんやお祖母さんからはるねぇの話を聞いたあの晩から、もう遠慮はいらないんだと、何か吹っ切れたような気がしていた。
「あんずー」
 はるねぇは、子どものように目をきらきらさせながら、あんず飴の出店を指差した。
「決まりだな。焼きそば・ポテト入り」
「あーんーずーー!」
「はるねぇはデザートを最初に食うのか? 否。出店と言えば、まずは焼きそばそしてたこ焼き。それが祭りの流儀だ。いや礼儀と言っても過言ではない」
 はるねぇはしばらくぼーっとしてから、頭の上で豆電球が“ぽんっ”と光ったかのように目を丸くした。
「そうだったんだー」
「うむ。……勿論、嘘だがな」
「………てい!!」
 ――ぽむっ!! 久々に、猫パンチを受ける。そして、二人で笑いあう。そんなじゃれあいの中でも、二人の手はしっかりと繋がったままだった。
「……まぁ、そんなことはいいから、とにかく何か食おう」
「あんずー」
「はいはい、分かった分かった。あー引っ張るな引っ張るな、伸びる」
「腕が? にょろ〜んと?」
「そうだ、と言ったら?」
「ゆ〜にゃん、半分こだにゃん?」
「……スルーかよ。……あぁもう、分かってるって」
 はるねぇに引きずられるようにしてあんず飴の出店へと向かう。ふっと、何気に空を見上げる。
 ――――――確か今日は、みずがめ座ι流星群の南郡がピークだったよな。――――――そんなことを思い出した。
 提灯で区分けされた真っ黒の夜空には、白点の一つも見えそうにない。大通りに僅かな風が吹きぬける。提灯が揺れ、夜空に赤色の軌跡が一瞬だけ描かれた。

 二人は、順調に屋台を制していった。あんず飴、焼きそば、クレープ、大阪焼き、綿飴、……はるねぇのチョイスが甘いものばかりだと言うのには、この際目をつぶる。
「……さてと、次「緑!」」
 言い終わる前に、はるねぇは子どものような笑顔で、チョコバナナの出店を指差した。
「はいはい………しかし、よりにもよって、何でそんな色を選ぶんだか……」
 そう愚痴りながらも、既に足は出店へと向かっている。
 きっと、自分はこの笑顔に騙されて、弟らしくこき使われていくのだろう。――――これからも、ずっと。思わずついた溜息は、しかし、微かな微笑が、色づいていた。

――――――――* * *――――――――* * *――――――――* * *――――――――* * *――――――――

 トイレから戻ってきたときだった。はるねぇが、別れたその場所で、うずくまっていた。
「―――っ! はるねぇ、大丈夫か!?」
「…………あ、……ゆーにゃん。………」
 心なしか、顔色が悪いようだ。
「オイ、大丈夫か! 顔色が悪いぞ!」
「…………だいじ〜。ちょっと、疲れちゃっただけ…にゃん」
「ちょっとって。…………立てそうか?」
「……う〜ん、どうかにゃぁ……」
「あー……」
 今、取れる手段を一つ思いつく。思いついて、悩む。――――本当に手段なのか、ただ単に欲求なのか、分からなかった。
「……はるねぇ、とにかくここを離れよう」
 言ってしゃがみ込み、背を向ける。
「………? なに?」
 はるねぇは、イマイチ意味が飲み込めないようだ。
「……背中……」
 後ろ向きでよかったと、思う。行為の恥ずかしさに頬が赤くなるのを感じる。
 僅かな停滞の後、はるねぇの気配がゆっくりと近づく。そして、肩越しに両の手が回される。
「……ゆ〜にゃん、耳真っ赤だにゃん? ……えっちぃ〜」
 そんな静かな声が耳元でささやかれた。背中に当たる感触との相乗効果で、『このまま二人きりになりたい』と思ってしまった。
 自分も単純だ、あまりに動物的だと心の中で罵声を浴びせるも、手と背中の柔らかな感触が、胸の動悸が、その効果を打ち消し続けている。
「……えへへー」
「……笑うな、馬鹿。仕方なくだ仕方なく」
「仕方にゃい、にゃ。うん。仕方にゃい。……えへへ」

 二人は一つのシルエットになって、祭りの喧騒から抜けていく。ゆっくりと、一歩ずつ。
 ――――この時間が、ずーっと続けばいいのに……。そんなことを考えながら、歩いていた。