ねこのの。

 

3章:すれ違う思い

   

3-1 冬夜

 夏が終わり、木々の葉が色づく。やがてその葉が落ち、畑には霜柱が立つようになる。―――――冬が始まる。
 部屋の中では程よく使い込んだ石油ストーブが暖かな光を放ち、庭の広葉樹の葉を落とした寒さの浸入を拒んでいる。
 時折、カンカンと乾いた音を立てているストーブの上では、やかんがシュウシュウと湯気を吐き出している。
 あの約束の日から、早くも二年の月日が流れた。あの約束は、今でも守っている。
 ここに来た当初は抵抗感のあったこの家にも慣れ、今では自分を育ててくれる和泉家に、敬意すら感じている。――――何かといえば、ビキニパンツ(赤)一丁で筋トレを始めてしまう伯父さんをも、含めて。
 ――――― というか、冬でもそのスタイルを貫いていて寒くはないのだろうか。都会で育っていた自分には、信じられない姿ではあった。……今では見慣れてしまったが。

 まぁとにかく。何かと騒動の耐えない賑やかな家ではあるが、だからこそ、今ここに自分が自分としていられるのだと思っている。
 農作業もよく手伝うようになった。もちろん、お小遣い目的ではなく。
 はるねぇは、2年経っても相変わらず頼りないままだった。「これが女子高生?」と思うこともしばしばである。まぁ、頼りになるはるねぅというのも想像が出来ないのだか。
 ――――いくら女子高だからって、入学式のその日に『大福』を咥えての帰宅はないと思うぞ、はるねぇ。それじゃあ、『ねこ娘』ではなく、『いぬ娘』だ。
「なんにゃ? ゆーにゃん」
「……いや、何でもない。気にするな」
「気になるにゃん」
「いいから、勉強に集中しろよ」
「……む〜。いいもん、飲み物取ってくるにゃん」
 少々いじけたようなはるねぇは、そういい残して階下へと降りていった。
 アレが癒し系なのだろうか? と、少々疑問に思う。――――そう、はるねぇは我が男子校の一部の生徒達の間で「子犬系癒し猫娘」なる称号を戴いている。
 命名者はクラス委員長。この委員長、なんと男子校の学園祭でクラスメートをたきつけて「メイド喫茶」なるものを行なってしまったという、ツワモノである。
 喫茶店自体はなぜか好評だったらしいが、正直、あの事はあまり思い出したくない。――――ファンクラブが出来てしまった身としては。
「ゆ〜にゃん、ココアいれてきたにゃー」
「ん。サンキュー」
 子犬系ねぇ。……まぁ、多少解らなくもないな。うん。
「ってか、何で部屋でコートを着ているんだよ」
「……廊下とか台所って、結構寒いにゃん。 さってと、私も頑張ろうかにゃ」
「……ろうか、じゃなく頑張る」
「うにゃー。ゆーにゃんが苛めるにゃ〜 ……」
「赤点とっても、知らないぞ」
「…………」
 はるねぇは、テーブルの向かいに黙って座る。既にテーブルには、はるねぇの教科書とノートが広げられている。明後日から期末テストが待ち構えていた。
 やかんの立てる音を通奏低音にして、二人分のシャープペンシルの走る音と教科書をめくる音が、部屋の中にハーモニーを紡ぎ出す。
 そんなBGMに、階下からの柱時計の音がかぶさる。――――この音にも、馴染んだ。今では時計を見なくても時間の経過を計れる、便利なアイテムとなっている。
(……7時か。後一時間ほどしたらひと段落だな) そんなことを思っていたところに、はるねぇの声が掛かる。
「ねぇ、ゆーにゃん」
「……なんだ?」
「高校、楽しい?」
「……まぁ、それなりに」
「……テストがあっても?」
「別にテストで困ったことはないな」
「…………それ、嫌味にゃん?」
「いや、ただ単に事実を客観的に言ったまでなんだが」
 それを聞くと、はるねぇはぷーっと膨れた。……思わず突っついてみたくなった衝動を、かろうじて押さえる。ここでそれをやったら、敵の思う壺だ。
「……ゆーにゃん、学校で嫌われてにゃい?」
「……ファンクラブがある身としては、そう願いたいね」
「あぁ、あのメイド服姿。ゆーにゃん、すっごく似合ってたもんにゃ〜。 あっ、私、あの時のブロマイド、みのりに送っちゃったんだにゃー。失敗したにゃー」
 はるねぇの親友だった神明さんは、今は引っ越して横浜にいる。――――というか、なぜそれを他校生であるはるねぇが持っていたんだ? 
「…………はるねぇ、別の部屋で勉強していいか?」
「えー、石油がもったいにゃいにゃー。それに、目の前でゆーにゃんが頑張ってると“私も頑張らにゃいと”って思えるにゃん。だから居てにゃん」
「はいはい。こうして私語が増えたら意味ないけどな」
「うにゃぁ。黙って勉強するにゃー ……」

 ――― 一分経過。
「ねぇねぇ、ゆーにゃ「私語を慎め」」
「うにゃうぅ……」

 ――――――――― 五分経過。
「に゛ー、テストなんか嫌いにゃ……。年号覚えたって何にもにゃらにゃいんだにゃぁ……」
「はいはい。さっさとするする」
「み゛ー ……」
 はるねぇは、唸りながらも教科書に視線を戻す。
 しっとりとぬれた窓の先には、厚い雲に覆われた灰色の空が広がっていた。関東平野の真ん中に位置する星野の冬は、雪こそ降らないものの、厳しい寒さが続く。
 やかんの立てる音。シャープペンシルの走る音と教科書をめくる音。時折あがる、ストーブのカンカンという乾いた音。いつもの、冬の情景だった。

――――――――* * *――――――――* * *――――――――* * *――――――――* * *――――――――

 沈黙が一時間も保てたのは、たぶん奇跡だと思う。
「飽きたにゃーー!!」
「シャーペンを投げるな!」
「ゆーにゃん、勉強しすぎだにゃん。若いんだから、もっと外で少年時代をエンジョイしようよ」
「何年寄りくさいことを」
「ゆ〜にゃんよりは年寄りなんだにゃん」
「はいはい。これで来年は受験生? 何かの間違いじゃないか?」
「そうかもにゃ〜。案外、就職って手もあるにゃん」
「今時、高卒じゃ難しいだろ」
「……永久就職?」
「もっと無理。ほら、馬鹿言ってないで、勉強しろ」
 猫模様のシャープペンシルを拾い上げたとき、床に振動を感じた。階段を登る足音が、部屋の前で止まる。
 ノックとともにドアが開く。叔母の詩穂さんが、甘い匂いを身にまとって入ってくる。
「二人とも、スィートポテト作ってみたんだけど、食べる?」
「はい、いただ「わ〜い、おやつにゃ〜〜!」」
 教科書を盛大に放り投げたはるねぇ。……この分じゃ、今日はもう勉強にはならないだろう。
「ふふふ…。ごめんなさいね? このお子様が邪魔しちゃってて」
「まぁ、いつもの事ですし」「……(むぐむぐ)……」
「……大変ねぇ、結城君も」
「……いや、詩穂さん程じゃないですよ」「……(むぐむぐ)……」
 いつもなら、このあたりで突っ込みを入れてくるはずのはるねぇが、今日は妙に静かだ。
「……って、おい、俺の分は?」
「むぐ?……ふぁっふぇ、ふぉふぃひぃんにゃふぉ〜ん っっ!!! ケホッ! コホッ! 」
「……馬鹿。食べながら喋るからだ。ほら、これでも飲め」
 むせ返って涙目になっているはるねぇに、手元のココアを渡す。はるねぇは『ありがと』というように、小首を傾げる。
「ふふふ…相変わらず、二人とも仲がいいわねぇ……」
「……約束、ですから」
 ―――――どう答えるべきか一瞬悩んだものの、結局は無難に答えるしかない自分が、少し情けなかった。
「約束、ねぇ。……あぁ、そういえば今、駅前の方に行って来たんだけど、今年も相変わらず綺麗だったわよ」
 その言葉に、勉強に飽き飽きしていたはるねぇが飛びついた。
「あー、そういえば! ここ数年、冬ほたる見てないにゃー。ゆーにゃんは?」
「いや。……まだ現物は一度も見てないな」
 冬ほたる。どこかファンタジックな雰囲気の名前だが、実際のところは巴波川(うずまがわ)ライトアップの名前だったりする。
 巴波川とは、栃木駅の近くを流れている細い川のことである。川岸に蔵作りの建物が立ち並んでいることが特徴であり、小さな観光ポイントとなっている。
 その川岸に青色ダイオードを2万個取り付け、夜の蔵の街を鮮やかに彩るんだそうだ。
 パンフレットとかをよく配っているので、写真では見たことはあるが……、この極寒の中、わざわざ外に行くように馬鹿は――――
「よーっし、いくにゃん、ゆ〜にゃん!」
 …………いた。いましたよ。ここに。この極寒の中、わざわざ外に行くように馬鹿が。
「いや、外寒いし」
「お姉ちゃん命令にゃ!」
「いや、この寒い中一時間近くもかけ「お姉ちゃんめーーれーーにゃっっ!!」」
「……はいはい……」
「じゃぁ、早速準備するにゃん! 自転車も忘れちゃ駄目にゃん!!」
「いや、忘れるも何も、自転車以外に…あぁ、立兄に軽トラを「お姉ちゃんめーーーーれーーーーにゃっっっっ!!!!」」
「…………はいはい…………」
「フフフッ……若いっていいわねぇ。 気をつけていってらっしゃいね」
「……そういう問題なんでしょうか……」
 いそいそと準備を始めるはるねぇと微笑む詩穂さんを前に、出来ることといえばただ溜息をつくしかなかった。

 この時、自分はまだ詩穂さんの微笑みの意味を、理解していなかった。

  

  

3-2 冬蛍

 遠い間隔で置かれたランプの明かりを辿るように、車も通らない静かな道を二台の自転車が並んで走っていく。
「寒いにゃー寒いにゃー寒いにゃー寒いにゃー」
「ばーか、ばーか、ばーか、ばーか」
 夜の星野。氷結寸前の冷気の粒が、顔を壊さんとばかりに打ち付けていく。
「うにゃー、私はもうだめにゃー。俺を置いて、お前だけでも先に……」
「お前の犠牲は無駄にはしない。よし、帰る。さらばだ、はるねぇ」
「うわっひどいにゃー! この冷血弟ー! お前の血は何色にゃー!!」
「恒温動物だから、緑ではないと思う」
「ここは『おねーちゃんが死ぬなら俺も!』とかいう場面にゃん」
「死んでも言わねぇ。勝手に一人で死んでくれ」
「………………」
「大体、言いだしっぺは誰だと思ってんだ」
「……詩穂さん?」
「何でそうなる!!」
 きっかけは、詩穂さんの一言だったのかもしれない。だが、こんな夜間に自転車を走らせる破目になっているのは、紛れもなくはるねぇのせいだ。
「うにゃー。耳が凍っちゃうにゃー。顔が痛いにゃー」
「もっと必死でこげば暖かくなるだろ? 走れ。走らないと死ぬぞ」
「うん、頑張るにゃ…………」
「……………………」

「やっぱり寒いにゃー寒いにゃー寒いにゃー寒いにゃー」
「ばーか、ばーか、ばーか、ばーか」
 夜の星野。車も通らない静かな道を二台の自転車が並んで走っていく。ただひたすらに、騒がしく。


――――――――* * *――――――――* * *――――――――* * *――――――――* * *――――――――

 
 凍える空気を切り裂いて、自転車で走ること、一時間。目的地てある巴波川(うずまがわ)に到着する頃には、叩けば割れそうなぐらいに顔面が冷たくなっていた。
 自転車を川岸に置き、歩いていく。

「うにゃ…… 綺麗にゃ……」
 青く輝く蛍達は、冬の夜を煌びやかに彩っていた。――――その数、およそ、二万。鏡面のような水面に映る、二万もの青い灯り。
 川岸を歩く人は無く、冷たい空気の中、幻想的な、それでもどこか日本の伝統を感じさせる、静かな空間が広がっている。
 正直、たかが田舎の町のイベントだと侮っていた。しかしながら、僅かな時間、冬の夜に舞う青に魅入ってしまっている自分がいた。
「うにゃ〜……何かいいにゃぁ……こういう感じ。 ホント、綺麗……」
 はるねぇは川岸の柵に寄りかかり、うっとりとした瞳で水面を見つめている。
 そのままほっとくと一生ボーっとしていそう――――ってか、この寒さじゃ、洒落になっていない気がする――――ので、はるねぇの頭を軽く小突いた。
「はるねぇ、寒いからさっさと行くぞ」
「もぅー、ゆーにゃんは感動が足りにゃいにゃ……。もっとこの綺麗な風景を味わうにゃん」
 反論することも無く、黙って先に歩いていく。綺麗なことは綺麗だが、それ以上に寒すぎた。じっとしていると、このまま彼岸にでも行ってしまいそうだ。
「うにーっ待つにゃー。ゆっくり歩くにゃん、ゆ〜〜〜っくり、にゃぁー」
 二人で川岸を歩いていく。周囲の蔵作りの店から漏れた光が、僅かに道を照らしていた。
 ゆっくりと流れる巴波川はせせらぎ一つ聞こえず、足音だけがただ響いていく。
「あ、和菓子やさんにゃ」
「“本日閉店”だとさ」
「このお店にゃ、大福がおいしいんだにゃ。皮が物凄くもちもちーっとしててさ、柔らかいんだにゃー」
「あぁ、はるねぇが高校の入学式の時に買ってきてた大福か?」
「そうにゃー。美味しかったよにゃー……」
 大福の味を思い出しているのか、はるねぇは、なにやら遠い目をしながら、「ふくー。おっきいふくー」などと呟いている。
「っていうか、入学初日に大福咥えて帰ってくる女子高生がどこにいるんだよ……」
「大丈夫にゃん、その子はきっと可愛いにゃん」
「入学式から帰ってきて、『ただいま』の代わりに『ふぐー』と言うような子が可愛かったら、素敵だよな」
「ふぐー」
「うわぁ可愛くねぇ」
「お姉ちゃんパーンチ」
「弟クロスカウンター と、見せかけて、必殺デコピン!!」
「「……………………」」
「……い・痛いにゃん」
「…………馬鹿」

 冬蛍が舞う道を二人、無駄話をしながら歩いていく。勝手に飛んだり跳ねたり笑ったりするはるねぇを横目に、情景をゆっくりと見つめていた。
「うにゃー、やっぱり、綺麗だにゃん……」
「………ん」
「何か雰囲気いいし、デートにはピッタリだにゃー。もしかしたら学校の子がいるかもしれないにゃん?」
「そうか? わざわざこんな田舎の町のイベントに出てくるか?」
「田舎だからこそにゃん。東京行くの時間かかるし、ここは結構綺麗だと思うんだけどにゃ……無名でも、いい所って一杯あると思うにゃん」
 そう言うと、はるねぇは川岸の太い木の柵に座った。そして辺りをゆっくりと見渡す。
 ただそれだけの事なのに、何故かそのままふっと辺りに溶けていってしまいそうな、そんな儚さを感じてしまった。――――なぜかは分からないが。
「……にゃ。もしかしたら、彼氏彼女に見られているかにゃ!?」
「……だれが?」
「うにゃん、もう、分かってるくせにぃー」
「あらぬ誤解って奴だな。……まぁ、ほかに誰もいなくちゃ、見られる事自体がありえないな」
「むう、面白くにゃい。……実は姉弟でしたー! ってオチがつくのに」
「いや、つけなくてもいいから」
 というか、知り合いだったら、二人が姉弟だってことは知っていると思うのだが。
「うにゃ!? じゃあ、ゆーにゃんは事実という方向性がお好み?」
「阿呆」
「よし、ゆ〜にゃん。いつ見つかってもいいように、手、繋ぐにゃん。ラブラブ全開にゃん」
「……………………」
「うにーー。冗談にゃんだから、“相変わらず馬鹿な姉だ”って目で見るにゃよぅぅ……」
「よく解っているな、お姉ちゃん。えらいぞ、お姉ちゃん」
「子ども扱いするにゃー!」
「『子どもだよ。どうカッコつけたって、私たちはまだ子どもには違いないんだから』……だったか?」
 あのころから進歩してない二人がいるような気がして、中学生のころにはるねぇに言われた言葉を返してやる。
「いつのはにゃしにゃー!」
「まったく、幾つになっても…………。はぁ、やれやれ」「話を聞くにゃーー! 溜息つくにゃーーー!!」
「はいはい。馬鹿やってないで行くぞ」
「うーにゃー。手が冷えて動けにゃいにゃー」
「また、えらく棒読みだな」
「にゃいにゃー?」
「……そういう事してて、大人なのかねぇ。……ったく、ちょっと待ってろ」
 期待の眼差しを向けるはるねぇに背を向け、歩く。近くにあった自動販売機に120円を入れて、ボタンを押す。
「ほれ、120円懐炉」
 振り向きざまに、はるねぇにホットミルクティーの缶を放る。
「えっ? うにゃゃ!」
 少々飛距離が足りなかった缶を取ろうと、慌てて飛び出すはるねぇ。その拍子に、太ももの奥がチラッと見えてしまう。
 狙ったことではなかったので、思わずドキドキしてしまった。……いや、待て、自分。なぜにドキドキする? 相手ははるねぇだぞ? オイ。
「もうー。ゆ〜にゃんてば、シャイにゃんだからぁ。」
「……馬鹿か」
 内心の動揺を悟られないよう、かろうじて答える。幸い、はるねぇは、見えてしまったことには気付いていないようだ。
「あははっ。これはこれでゆーにゃんの優しさだと思っておくにゃん。……むしろラブ?」
「全然。全く。これっぽっちも」
「ふにゃう。…ゆーにゃん、お姉ちゃんへの優しさが足りてないにゃ」
「元々無いし」
「そんな照れ屋のゆ〜にゃんを、お姉ちゃんは無償の愛で優しく見つめてるにゃん」
「……あー、うるさい。さっさと帰るぞ。寒くて仕方が無い」
「うにっ。待つにゃん。帰る前に、あの木見ていくんだにゃー」
 はるねぇは小走りで追いつき、追い抜く。指差す先には、無数のダイオードで輝く大きな木が一本。
「ねーねー、ゆ〜にゃ〜ん」
「あー、もう。分かったから腕を引っ張るな! 伸びる!」
「……腕が? にょろ〜んと?」
「…………なぜ、この流れでボケられる?」
「ナ イ シ ョ ☆  女の子には、秘密が一杯あるんだにゃ〜!?」
「……はいはい」
 引っ張られるがままに歩いていく。僅かにずれた服の隙間から、寒気が容赦なく進入して寒い。
 蛍に囲まれた石の道に、どこか楽しげな足音だけが響いている。

――――――――* * *――――――――* * *――――――――* * *――――――――* * *――――――――

「綺麗だにゃん……」
「……………ん……」
 木の根元まで来て、見上げる。配線を捲きつけて点描の青に輝くそれは、限りなく科学的な光でありながら、どこか幻想的な存在だった。
 生きている化石とも言われるメタセコイヤの木に、現代科学の結晶の青色ダイオードの光。
 葉の隙間から覗く夜空の黒に、蛍の青。
 極寒の空気の中に輝く、夏の風物詩。
「「……………………」」
 自らの吐いた白い息が、視界に入った。風景は僅かに曇っただけで、すぐさま冬蛍の景色に戻る。
 ――――“見上げる”という行為が好きだった。視界が空で埋まり、認識できるのは自分だけになれる。そんな穏やかな孤独が好きだった。
「「……………………」」
 数分。二人はただ、その光景を見つめ続けた。空中の水分すら輝きそうな寒さの中、灯る青の光を浴びる、禊(みそぎ)の数分。
 沈黙は、柔らかく、ただ、漂う。静かに見上げ続けているはるねぇに、やはり、そのまま溶けていきそうな儚さを感じてしまう。
「……よし、帰るか」
「……にゃん」
 時間が止まったかのように、静寂を続ける周囲。足音だけが、凍結した空気を揺らしていく。
 姉弟は冬蛍の舞う、静寂の夜を歩いていく。手を繋ぎ、ゆっくりと。

 ――――他人から見れば、もしかしたら恋人にでも見えているのかもしれない、と、そんなことを僅かに考えていた。

  

  

3-3 初雪

 遠い間隔で置かれたランプの明かりを辿るように、車も通らない静かな道を一台の自転車が走っていく。
「ゆーにゃん、重くにゃい?」
「限りなく重い」

 帰り道。自転車の後ろにはるねぇを乗せて、夜道を走っていく。――まさか、はるねぇの自転車が盗難に遭うとは思わなかった。
 周りにあるはずの畑は夜の闇に消え、時折見える家の灯りが点々と灯っている。等間隔に並ぶ街灯だけを頼りに、二人の家を目指す。
 踏みつけるようにしてペダルを押し下げていく。吹きつける風は冷たく、耳が痛い。
「うぅー、今日は一段と寒いにゃー。体が凍っちゃうにゃん」
「はるねぇ、自転車を漕ぐと暖かくなるぞ」
「それは嫌にゃん。…そういえば、自転車の後ろにこうして乗るのが小さな夢だったにゃん。男の子が自転車を漕いでる後ろで、『好きな人が』」
「どこの映画だ馬鹿」
「ゆーちゃんはノリが悪いにゃん……。バイオリン弾こうよー」
「いや、普通に無理だから」
「耳を澄ますにゃん」
「…………じゃあ、明日からでも留学するか」
「………………」
 車輪の音、吹きつける風の音だけが響いている。お互い全く無理のない、柔らかい沈黙がゆっくりと流れていく。
「……ねぇ、ゆーにゃん」
「……ん?」
「ゆーにゃんは、好きな子とかはいないにゃ? 何かいっつも私と一緒だし、お姉ちゃん的に心配だにゃん」
「生憎いない」
「またまた〜。ホレホレ、白状するにゃん?」
「いや、ホントにいない」
 気になってしょうがない奴なら、後ろに乗っている。でも、“好きな子”というのとは違う――――多分。そう思う。
「え? なんで? ゆーにゃんモテそうにゃのに。誰かいにゃいの?」
「無理いうな。男子校で誰に惚れろと。」
「別にかまわないにゃん? ゆーにゃん可愛いし」
「…………確かにごく一部的に、ファンクラブは存在するが」
「わくわく。禁断の世界にゃん?」
 好奇心全開で目を爛々と輝かせているはるねぇの様子が目に浮かび、思わず苦笑する。
「勘弁してくれ。……まぁ、いっつも引っ付いているお姉さんがいるしなぁ」
「あ………。そっか……。ゴメン、ゆーにゃん……。」
「別に困ってないからいい。そういうはるねぇは?」
「全然いにゃいよ。女子高だし」
 女子高こそ『禁断の世界』じゃないのか? と思ったことは伏せておく。なんか肯定されても否定されても、ものすごいショックを受けそうだから。
「…………どうしようもない姉弟だな」
「そうにゃん。……あーぁ、いつかはゆーにゃんも、お嫁さん見つけて出てっちゃうんだにゃー」
「そりゃぁな。……っていうか、大学行ったら出来るだけ独り暮らしをするつもり」
「ええぇぇー!? 聞いてにゃいにゃん!?」
「初めて言ったからな」
 はるねぇは少しだけ沈黙して、僅かに服の端を掴んだ。
 顔も見ず、たったそれだけの事から緊張しているのだと分かるのだから、やっぱり姉弟なんだなと思う。
「……やっぱり、星野の家にはいたくにゃい?」
「ん……別に……」
「…………………」
「和泉の人たちには本当に感謝している。そりゃぁ、来た時は散々馬鹿やったけど、今では本当に心から感謝している」
 それは、紛れもない本心だった。――――いきなり身寄りの無くなった自分を、こうして育ててくれた。金銭的にもその他にも、たくさんの負担をかけたはずなのに、温かく迎えてくれた家族。
 この恩は一生かけても返して行こうと思っていた。
「……うん。良かったにゃん」
「……はるねぇにも、本当に感謝しているから。多分、和泉の家族の中で、一番に」
「…………うん」
 きっと、はるねぇがいなかったら、今の自分はいなかったに違いない。日々フラストレーションを溜めまくる、ひねくれた少年に育っていたのだろうと思う。
「感謝してるからこそ、早く独り立ちしたいんだよ。奨学金貰って、バイトしながら大学行って……。――――――まだまだ先の話なんだけど、な」
「……うん。ゆーにゃんはしっかりしてるにゃぁ……。自慢の弟にゃん」
「そういうはるねぇは? 来年は受験生だろ?」
 はるねぇの返答まで、少し間があった。
「実はね、全然考えてにゃいんだにゃ。…………うん。全然、何も、考えてにゃかったんだにゃん」
 そう言うと、はるねぇはゆっくりと溜息をついた。
 こんなゆっくりとした溜息をするはるねぇは、初めて見たような気がした。
「……何か不思議だにゃん。ずーっとこんな時間が続く気がしてたにゃ。学校があって、家に帰るとゆーにゃんがいる。そんな時間が、ずーっと……」
「ずっとも何も、俺が来てまだ2年しか経ってないぞ」
「そっか、もう2年も…………早いにゃん……」
 なんとなく、はるねぇは空を見上げているのだと分かった。
 ゆっくりと白い息を吐いて、茫洋とした瞳で曇天の夜空を見つめている気がした。
「続いちゃえばいいのににゃ……ずーっと……」
「いい加減、弟離れしろって」
「いいんだにゃ。私、ブラコンお姉さんなんだにゃん。ゆ〜にゃん可愛いよ〜」
 そう言うと、はるねぇは腕を体に回し抱きついてきた。突然の出来事に、思わずハンドルがぶれる。
 はるねぇが小さく悲鳴を上げた。
「……阿呆」
「あははっ。にゃーに焦ってるのかにゃー」
「…………」
「でも何ていうか、ゆーにゃん以外の男の子を世話するイメージが沸かないんだにゃー。やっぱり、ずーっとこんな時間が続く気がするんだにゃん」
 ――――まただ。なぜかまた、そのまま溶けていきそうな儚さを、はるねぇから感じてしまう。
 体の密着度は上がっているはずなのに。こんなにも、柔らかな膨らみを……感…じ……!?
「――――くっつくなって」
「いいにゃん。お姉ちゃん命令にゃんだにゃー」
「……はいはい……」
 きっとこのまま寝る気なんだろうなぁと思いながら、ペダルを踏みしめる。星野の家、二人の家まで、あと10分はかかりそうだった。
 そんな時、視界の隅に小さな小さな白い粒がゆっくりと落ちていくのが映った。
「……雪?」
「うにゃ、初雪だにゃん! 綺麗にゃ〜」
「綺麗なのはいいけど、走りにくくなった!」
 走っていく程、白の密度は上がって行く。顔に当たり、解けていく。
「あははっ。ゆ〜にゃん、ガンバ……っ、くしゅん!!」
「……またタイミングよく風邪を引いたな?」
「そ・そういうわけじゃ……くしゅん! くしゅん! …あっ、鼻水にゃ」
「…………おい」
「あははっ、冗談にゃ、冗談冗だ…っ、くしゅん! あ゛」
 そういいながら、背中をふき取る感触。思わず溜息をつく。
 これで後ろが恋人だったら、初雪の夜にはもっと何か違った話でもするんだろうな……とぼんやりと思う。が、現実は後ろは姉で話題は鼻水だった。
(やっぱりどうしようもない姉弟だな)そう思い、再度溜息をつく。
 雪は降り続ける。少しずつ、少しずつ強度を増しながら。
「あーー畜生! さっさと帰るぞ!」
「ゆ〜にゃん、頑張れー!」

 星野の夜に降り注ぐ初雪は、溜息が出るくらい綺麗で、溜息が出るくらい冷たかった。

 夜に舞うこの白の粒が、冬蛍のように青く輝けば、きっと綺麗だろう。そんな事を考えていた。

 凍りつくような風に耐えながら、加速していく。二人の家まで、あと少し。