ねこのの。

 

OP 星待

  

 星を待っていた。

 谷倉山の中腹。
 八月の夜は僅かに肌寒く
 柔らかい夜風が髪を揺らしていた。

 周囲の森林は静寂に包まれ、
 慣れない浴衣の擦れる音だけが微かに広がり、
 消えていく。

 繋いだ右手。肩に伝わる温度。
 猫特有の柔らかい毛が首元に当たって、
 少しこそばゆかった。

 二人の間に声は無く。
 ただ時折、
 背中に優しく触れる尻尾の動きだけが、会話だった。

 夏水仙の香り。
 見上げ続ける夜空には、
 白に輝く無限の星々が浮かんでいた。

 願いを掛ける白線を、ずっと、待っていた。


 星を、待っていた。

  

  

1章:はるねぇ

  

1-1 夏夜

「ゆーちゃん、眠れにゃいの?」
「…………」

 寝たふりをして答えなかったのは、ただの反発心だった。
 夏の夜。エアコンも無い部屋。開け放してある窓からは、ときおり生ぬるい風が入り込んでくる。
 昨日まで居た東京の我が家から百キロも離れた、父方の実家。
 栃木県栃木市、星野(ほしの)。
 『星野の』と両親が呼ぶ、田舎の二階。
 枕もシーツも毛布にも、自分のではない匂いが染み込んでいて、僕は眠れそうに無かった。

「…………」
 薄目を開けると、はるねぇ――正しくは『和泉(いずみ) はるねぇ』と呼ぶらしい――が、僕の布団の横で、ちょこんと正座をしていた。
 ――いつの間に。開け放してある窓からでも入り込んだのだろうか。いや、まさか。さすがに、それは無いだろう――無いと思いたい。
 一呼吸の沈黙の後、そいつは小さな声で囁く。
「……これからよろしくにゃ、ゆーちゃん」
「…………」
 小さな手が、髪を撫でていた。
「これから一杯一杯大変なことがあると思うにゃん。けど、一緒に頑張って行こうにゃ。皆で頑張って行こうにゃ」
(お前なんかに、何がわかる……)なおも黙っていたら、大変なことを言い出した。
「私とゆーちゃんは、今日から家族なんだにゃん。姉弟なんだにゃ」
「…………」
 再びの静寂。
 柔らかすぎる枕が未だに慣れず、小さな目覚まし時計の秒針音がやたらと気に障った。
 ときおり、耳元を飛び回る蚊の羽音がたまらなく不快だった。

 ―――これらを、受け入れなければならない―――

 その理解はあった。だが、この横に座り続けるものだけは、正直受け入れ難かった。
 田舎は、まぁ、よい。虫の音も我慢しよう。しかし、なぜ、よりにもよって、これを“姉”としなければならない。

 ――――冗談じゃない。なぜ、人間の僕が“人猫”の“弟”なのだ。

 このとき、僕……川島 結城(かわしま ゆうき)は、はるねぇなる人猫が、あまり好きではなかった。

――――――――* * *――――――――* * *――――――――* * *――――――――* * *――――――――

 “人猫”。――何でも、元々は『究極の愛玩動物』として誕生した『人工生命体』らしい。「らしい」というのは、僕が余りそんなものに興味が無かったためだ。
 発表された当時は、その愛くるしさと、人の様な姿に、色々と物議をかもし出したようである。
『遺伝子工学』だとか『現代のキメラ』だとか『生命倫理』だとかいう単語が、一時、世間に飛び交っていた。
 まぁ、難しいことはよく解らない。それで無くとも、興味の無いことである。解るはずが無い。
 が、結局のところ、“人猫”は、社会的に、市民権を得てしまった。――いともあっさりと。
 何でも、水○さんとか言う有名な漫画家さんが、『“猫娘”は、日本古来から居る、妖怪ですから』と言ったとか言わなかったとか。
 まぁ、とにかく、僕には関係の無い話だったから、「そんなものか」で済ませていた。
 ――世の中には、本物(?)の犬猫をまるで自分の子どものように接している人も居るのだ。人型だろうがネコ型ロボットだろうが、僕の知ったことではない。


 月光の差し込む部屋に、再び静寂が訪れる。微かに響く虫の音。網戸の先に、夏の夜空が広がっていた。
 感覚に伝わる全ては、人によっては郷愁を呼び起こすような物だったのかもしれないが、僕はその一切を理解できなかった。したくなかった。

 ―――ここは田舎なのだ―――

 パソコン一つで全ての情報を集められる時代の中で、未だに数千年前と同じように自然とともに生きる、そんな世界なのだ。

 ―――あぁ、だから猫娘が居るのかもしれない。
 そんな事をふと思いながら、逃げるようにして眠りへと落ちていく。

 ――――僕に、ネコみみ属性は、ない。よな?―――― そう心に確認を取りながら。


 両親が死んだ、一週間後の夜だった。

 まだ僕は、この土の世界を、これから過ごす世界を、そしてネコみみを、拒絶し続けていた。

  

1-2 朝食

「ゆーちゃん、おはよーにゃん」
「……おはよう」
 朝日の差し込む台所。『はるねぇ』なる“人猫”は、なぜか無駄に元気だった。
 やたら横に長いキッチンでは、はるねぇと叔母の詩穂(しほ)さんがてきぱきと朝食の支度をしている。
 ガスコンロは5口、電子ジャーは5合炊き。大きなテーブルには椅子が8つ。全ての設備が東京の2倍だった。
 テーブルの上には、食卓用の蚊帳が広がっていた。虫を拒む必要がある。その理由で存在するアイ…テ…
「――おい。何をしている」
「うにゃ!?」
 ふと見ると、はるねぇが蚊帳の隙間から手を入れ、おかずの焼き魚を取ろうと四苦八苦していた。……訂正。虫とはるねぇを拒む必要がある。
 「いつものこと」という感じで、詩穂さんの声が掛かる。
「はるねぇ、つまみ食いは駄目よ。――――さて、後は卵かしらね」
「にゃん。………あ、卵は私が」
 こげ茶色の籐(とう)のバスケット片手に、はるねぇは勝手口から外へ。……さては、逃げたな。
 卵をとってくるのは冷蔵庫からではなく、畑の横に小さく建っている鶏小屋からだった。窓の先に、四足で走っていく姿が見える。――――おい、バスケットは?
 突如、盛大な鳴き声が辺り一体に響き渡る。
「あーっ! 親鶏は襲うなよ、はるねぇ! それじゃあ猫じゃなくて狐だっペーよ!?」
 やたら大声な伯父さんの声。思わず頭を抱えてしまう。
「ふふっ……まぁ、私も最初はそうだったから、気持ちは分かるけどね」
 詩穂さんは、ゆったりとした雰囲気をまといながら、笑う。この詩穂さんは、横浜から『ほしのの』の嫁に来たらしく、境遇の近さから僕は親近感を感じていた。
「誰でも最初は慣れないものよ。私も物凄い苦労したわぁ……。でも、大丈夫、ゆっくりと慣れるわよ」
「……そうですか」
 やっぱり、慣れなければいけないのだろうか。
「おっ、ゆうくん、はえぇなー! そんいや、今日は初めての学校だけんど、だいじけぇ?」
 日に焼けた赤銅色の顔と体。ボディビルダーばりの筋肉。栃木弁固有の無アクセントが時々理解でない。――――それ以前に、朝っぱらからビキニパンツ一丁の伯父が、理解できない。
「……まぁ、大丈夫だと思います」
 気にしたら、負ける。―――何に対して負けるのか分からないが、そう思った。
「そうけぇ、はるねぇはいっつもてれんこてれんこしてんべ? 危ねぇど?」
 ……ちょっとまて。あれと一緒に行くのか?
「もー! お父さんなに言うにゃん! 私、しっかりしてるにゃん! お姉さんなんだにゃ!」
 いつの間にか戻ってきているはるねぇ。昨晩の時といい、やはり猫だ。足音ひとつたってない。
「はるねぇ、爪は研ぐなよ」
 上腕二頭筋をピクピクさせながら、妙なポーズをする伯父。はるねぇは、今にも柱で爪を研ごうとしていた。
「え……? うにゃ! にゃにゃ、にゃにゃんにゃーっ!!」
 ……どうやら、無意識にだったらしい。
 騒々しさの耐えないキッチンに、窓からの眩しい日差しが差し込む。田舎の家の、和泉家の平和な朝の風景だった。

――――――――* * *――――――――* * *――――――――* * *――――――――* * *――――――――

 7人分の朝食が並び、7人の“いただきます”の声が食卓に踊った。……一部“にゃ”が入っていたのには、目をつぶる。気にしたら、負けだ。
「ゆーちゃん、どうにゃ? おいしい?」
「……ん」
「どっちだにゃぉ!」
「はっはっは! ゆうくんはクールだっぺなー!」
 ――――だから、大胸筋をピクつかせながらの笑顔は、怖いです。伯父さん。
「茄子もキャベツも――――鶏肉も、採・り・た・て、だもの。美味しくないわけないわよねー」
 さらりと嫌味を交ぜる、詩穂さん。
「うにゃ〜。ゴメンなさいにゃ。つい、本能に負けたにゃん。」
「はっはっは。いやぁー、はるねぇの料理は絶品だなぁ。この味噌汁なんてなかなか」
「おじいも馬鹿にしてるにゃー! それ作ったのはお母さんだにゃ!」
 賑やかな食卓。席に着く全員が、各々の箸を進めながら歓談を楽しむ、古来からの家庭の風景がそこにあった。
 母親と二人だけの食事が常だった僕にとって、それはどこか違和感を感じ、それでいて少し落ち着ける、不思議な空間だった。――――少し落ち着ける? 人猫やマッチョなボディビルダーが目の前に並んでいる情景に?
 思わず箸を止めてしまった僕に、隣の立秋(たつあき)さん……はるねぇの“兄”が、困ったように笑いかける。十歳年上の従兄は農家らしくない細身だったが、知性的で穏やかな雰囲気がどこか祖父に似ていた。
「すまないねぇ、結城くん。相変わらず騒がしい妹で」
「いえ、ちょっと途惑っただけですから。やっぱり、母と二人きりの食卓とは違うんだなと」
 この人が、そもそものはるねぇの飼い主らしい。何でも「妹が欲しいー!!」とか言って数年前に拾って来てしまったんだとか。人は、見かけによらないものである。あまり深くは考えたくない。
「そっかぁ……。」
 納得したような様子の立秋さん。本当の理由は、目の前のマッチョ&猫娘がじゃれあっているビジュアルが衝撃的だったなんてことは、言えない。
「そんいや親父、……」
 祖父、伯父、立秋さんによる畑の話が展開し始め、話についていけない僕は料理を黙々と食べることに集中した。はるねぇの『おいしい?』と問いかけるような尻尾の動きには、気付かぬフリを徹底する。
 料理は美味しい。多分美味しいのだろうが、何か根本的な違和感があった。口に運んでも、どこか、違う。
「…………あっ」
 思わず、声を出していた。そうか。違いが判った。料理の味付け云々ではなく、もっと根本的なことが、違った。全体的に、冷めているのだ、料理が。たぶん、猫舌(であろう)はるねぇの為なのだろう。
 思わず、ため息を一つついた僕を、不思議そうにはるねぇが見つめていた。
「……あれ? ゆーちゃん、どうしたにゃ?」
「……いや、なんでもない」
 食卓に一瞬の、限りなく一瞬の静寂が広がった。僕はそれに気づいていないフリをしながら、料理に箸をつける。
「……冷たい」
「あーっ! ゆーちゅんまで私の料理馬鹿にする――!」
 食卓は暖かかったから。僕は席を立つことが出来なかった。
 以前の情景は、もう何をやっても戻ってこない。暖かい空間の中で、そんな明白な喪失感を、ただ、ゆっくりと感じていた。――――微妙に冷めている、朝食を食べながら、そう、思った。


こんなのに、本当に、なれるのだろうか? その問いに対する答えは、まだ、見つかりそうに無かった。


  

1-3 静夜

「……あつい……」
 蝉が高らかに鳴きまくる中、中学校からの帰り道を自転車で走っていく。七月の青空に積乱雲が浮かんでいた。
 汗が額を、足を、背中を伝っていく。周囲が山に囲まれていようと、高度の低い星野の気温は35度を記録していた。
「田舎だ……」
 ペダルを力強く踏む。夏の風が髪を揺らす。田んぼと畑が、視界の端を流れていく。
 はるねぇは、登校途中から、姿を見ていない。――――アゲハ蝶を追って、畑の畝の向こうに消えていったのだ。
 一人では道に迷うのでは……という不安は、しかし、杞憂だった。何せ、まともな道が一本しかないのだ。迷うことすら出来ない。
 走れどコンビニの一軒も見えない。無論、ビルなんて無い。見えるのは点々と建つ住宅と田畑と山だけだった。塗装が風化しきった看板は、明らかに昭和の時代の風情を帯びていた。
 そんな中での学校は、遥か遠くからもわかった。今走っている道路は真新しいが、それが逆に周囲との違和感すら感じさせていた。
「ここに、ずっと住むのか……」
 思わず空を仰ぐ。何の建物にも遮蔽されない、パノラマの青空が視界に展開する。
 栃木県栃木市星野。蕎麦と“星野遺跡”という(あまり人気の無い)古墳、2月に咲くカタクリとセツブンソウ以外は、アピールに欠ける田舎町。――――そう思っていた。
「学校…か……」
 ふと、昼のことを思い出す。今日は転校初日と言うことで、最初のイベントはセオリー通りに自己紹介だった。
 僕が通う神尾中学校の全校生徒数は60名だった。2クラスでも、一学年でもなく、全校生徒が、60名。体育館に集められた全校生徒の前で、ぎこちなく挨拶。珍しい転校生ということで、向けられる視線が強烈だった。
 教室に戻った後は、これまたセオリー通りの質問攻め。どうやら、中学生に東京も栃木もたいした差は無いらしい。
 強いて差を言えば、男子女子関わらず栃木弁全開な事と、男子の坊主頭率と女子のすっぴん率が高いこと。――――そして、約半数の生徒に、“ねこみみ”がついている事だった。
 意識を戻す。サラウンドで響く蝉の大合唱を聞きながら、星野橋を渡り、長野川を越える。谷倉山の先に広がる青空に、積乱雲がゆったりと流れていた。
 Yシャツが汗で張り付くのを振り切るように、ペダルに力を込める。そういえば、昼過ぎに姿が見えなくなった1/3のクラスメート(自前のねこみみ付)は、どこで過ごしているのだろう。僕には見当もつかなかった。
「……ただいま」
 まだ、この挨拶を大声で言えそうにはなかった。

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「ねぇねぇゆーちゃん、学校どうだったにゃ? 大丈夫そうにゃん?」
「……それなりに」
「よかったー。 確かゆーちゃんは一組だったから大当たりだにゃ! 二組の戸田先生だったら最悪だったにゃん。すぐ怒るし、にゃにかと肉球をぷにぷにしたがるし」
 いやらしいにゃん、とはるねぇはプリプリする。――――というか、学校、行ってたのか。あのままどこかへ行ってしまったものだとばかり思っていた。
 夕食後のゆっくりとした時間。和泉家にはテレビが一台しかないのだが、大人たちはその部屋で酒盛りを始めてしまった。下の階から笑い声が聞こえる。
 ゲームが出来ないという理由一つで、僕はとことん暇になっていた。
「はるねぇ。はるねぇも下に行ってくれば?」
「えー…。だってお父さん、酒癖悪いんだにゃぁ……。突然、全裸で筋トレ始めたりするにゃん? 夕ご飯の後はゆったり過ごす時間にゃんだにゃ」
 ボーン、ボーン、ボーン……
 一階の柱時計から、胃に響くような音が鳴る。網戸から虫の声が届き、扇風機が首を延々と振り続けている。蛍光灯が少し眩しかった。
「〜♪ 〜♪ 〜♪」
 はるねぇはMDコンポを操作し、少し流行遅れのガールズポップスを流し始めた。
「♪ にゃ〜にゃ〜♪  も〜の〜がたりにゃ〜♪ いつだって始まっていた〜んだ〜にゃ〜♪  つ〜にゃ〜いだ手の先にゃ〜♪」
 テンポに合わせて、尻尾を左右に揺らすはるねぇ。残念ながら、歌は上手くなかった。
 ――というか、随所に『にゃ』だの『にゃん』だの『にぁー』だのと猫語(?)が混ざり、元々の歌がなにやら別物になりそうな勢いだった。
「料理は上手いのに、歌は下手……」
 思わずつぶやいてから、しまった、と思った。
「むうー。いいにゃん。料理は毎日やってるけど、歌は毎日じゃにゃいもん。経験値が違うんだにゃ」
「毎日? ――はるねぇ、毎日鶏絞めてるの?」
「違うにゃん。今朝はたまたまにゃん。いつもは普通にゃん。普通に、朝と夜は手伝ってるにゃん」
 いわれてみれば、はるねぇは調理から皿洗いまでやっていたことに気付く。猫娘が皆そうなのかもしれないけれど、正直、すごいと思った。だが、それを正直に認めるのも、癪だった。
「……猫の手も借りたい程、だとか?」
「……ふにゃ? にゃんで? 普通じゃにゃい?」
 今ひとつ意味が分からなかったのか、はるねぇは首を傾げる。傾げて、傾げて……こてっと、倒れてしまう。
「普通じゃないって。前の学校で、はるねぇ並みに料理出来る女子なんていなかったし」
 倒れる仕草の可愛らしさに、思わず本音が出る。とたん、はるねぇの目がらんらんと光りだす。
「そうにゃん? …ということは、ゆーちゃんてば色んな女の子の手料理を食べてにゃん? うにゃ〜〜ん! こにょこにょ、にくいにゃん!」
「……なんで、そうなる」
「まぁ、冗談はおいとくにゃん。ぶっちゃけ、お手伝いをしにゃいとお小遣いもらえにゃいにゃん」
「……田植えとか?」
「ここ、お米は作ってにゃいにゃん?」
「中学生からアルバイトかよ……」
 先の事を考えて頭を抱えた所で、階段の下から叔母さんの声が聞こえた。
「結城君ー! お風呂沸いたよー!」
「……風呂だってさ。はるねぇ、先に入ってこいよ」
「にゅにゅ〜……」
 はるねぇは少し考えた後、笑顔で言った。
「一緒に入るにゃん?」
「ブッ……馬鹿か!」
「にゃんで?」
「……いいから入ってこい、馬鹿」
「はいにゃん。……もうー、馬鹿馬鹿って言うにゃよぅ……。私、お姉さんにゃんだにゃ?」
 部屋を去るはるねぇ。騒がしいのがいなくなった所で、一息。
「はぁ……。なに考えてんだか、あの馬鹿……」
 何の気なしに背中を伸ばしたら、下に降りたはずのはるねぇがドアの脇から顔半分出して、満面の笑顔でこちらを覗き込んでいた。
「……ゆーちゃん、耳真っ赤だにゃん? ……えっちぃ〜」

 返答は、ぶん投げた枕だった。

――――――――* * *――――――――* * *――――――――* * *――――――――* * *――――――――

夜の24時。並んだ二人の間を、網戸から差し込む月光が照らしていた。
「ねぇ、ゆーにゃん。まだ起きているにゃ?」
「……ん」
「ねむれにゃいから、少しお話しようよ」
「さっき散々したろ。寝ろ」
「猫は本来、夜行性にゃんだにゃ〜」
「しるか。寝ろ」
「むぅ――……」
はるねぇが“困ったなぁ”と言った具合に溜息をつく。眠れなくて困っているのはこっちなのだが。
「ゆーにゃん。ここでの生活、にゃれた?」
「全然」
「……やっぱり、寂しいにゃん?」
「……別に」
「無理しなくていいにゃん……。寂しかったら、いつでも言うにゃん。お姉ちゃん、がんばるにゃ」
「勝手に頑張れ」
「ゆーにゃんは強情だにゃぁ……」
 はるねぇは溜息と同時に立ち上がった。僕の布団に近づき、そのまま潜り込もうとする。
「……なにやってんだよ」
「スキンシップにゃ〜〜」
 迫ってくる頬を押し返す。寝苦しい夜のせいか、接触した部分の体温だけがやたらと高かった。
「入るな! 暑苦しい!」
「うにゃ、にゃにゃん! 蹴っちゃ嫌にゃぁ!」
 布団からやっとのことで、熱源を押し返す。――――そういえば、猫って体温高めなんだっけ? ふと、そんなことを思う。
「うにゃー……。ひどいにゃゆーにゃん……」
「……もう寝る。はるねぇも寝ろ。喋るな。動くな」
「………………」
「……本当に止まるな馬鹿。招き猫か」
「冗談にゃのに……」
 はるねぇは、しぶしぶといった具合で、右手を下ろす。――――そして、左手を上げる。
「……友達、こいこいだにゃん?」
「………………」
 ――馬鹿は無視することにした。
 戻ってきた静寂。窓から吹き込む風に、一時的な涼しさを感じられた。今度こそ寝ようと瞼を閉じる。
 そして、意識を沈めていくことに集中し始めた頃。
「……ゆーにゃん。もう寝たにゃん?」
「…………」
 意識は半分くらい沈んだ。もう絶対反応しないことに決めた。
「ねぇ、ゆーにゃん。辛い時には辛いって言って欲しいにゃ。お姉ちゃん、鈍感だから。多分気付けないと思うにゃ……」
 言葉の後は、長い溜息だった。
「本当のお姉ちゃんにゃら、うんにゃ、ちゃんとした人間にゃら、……そういうのも分か…るのか…にゃぁ……」
 最後の言葉は、少しだけ言葉が途切れ、震えていた。
「ねぇ、ゆーにゃん……。わたし、やっぱり頼りにゃいかにゃあ……? ゆーにゃんのお姉ちゃんに、にゃれにゃいかにゃぁ……?」
「………」
「頼りにゃいかもしれにゃいけど、もっと頼っていいんだにゃん」
「……」
「……頼って、欲しいにゃん……」

 全てを意識の外に置いて、ただ今は眠りたかった。虫の音、しっぽが床を撫でる音。


 夏の夜が、静かに更けていく。