ひらり夏、ひと吹き。

   

   「アヂィ……」
7月27日、お昼過ぎ。
溝口はいつもどおり、神明神社の境内に入る。
予定していた時刻より少し遅れてしまった。しかし、まだみのりは来てない様子。珍しいことだ。
黄砂を足蹴りしながらそよ風に後押しされるように歩く。とりあえず馴染みの石段に腰を落ち着けることにした。
「あっつ……」
太陽でほてった石段はじりじりと溝口を炙るように熱を持っていた。
太陽燦々。本日も良いお日柄でとか言ってる場合じゃないくらい暑い。
ときおり吹く風がちょっとした気休めだ。頬を伝う汗を拭う。
けたたましく鳴るセミの羽音が周辺を包み、溶けるような日差しが集中と活力を徐々に奪い取っていった。


いざ冷静に考えてみると、日なたに座っていた。いわゆる直射日光ダイレクト。このままでは熱射病になるやもしれない。
というより、ここままではヘタレ体力がゼロと化してしまう。
……一応、ヘタレは自覚していると言おう。泣けてくるが。


「えーと、どこか日かげは」
周辺を見回す。そういえばいつもは来た時にみのりが『暇なのー?』とか言って、2人で話してばかりだから、大まかにしかこの神社の敷地を知らない。
境内の唯一ある大木のもとでも良い気がしたが、それでは木漏れ日から少し日が当たるような気がする。砂もこの石段と同じように熱いかもしれないし。
正直、動くのがだるい。
後ろを見る。いつもみのりがピアノを弾いている神社の中だ。ここはけっこう良いのではないかと考える。
「背に腹はかえられんってことで」
よっこいしょ、とオヤジ風の声を出しながらゆったりと立ち上がると、石段を登る。
蛇足だが、ここでホントに冷静になっていたのなら、
『太陽に温められた神社の屋根がそのまま室温を上げ、蒸し状態になるはずだから涼しいはずがない』
と考えられたのだろう。だが、あいにくそのような集中力は削がれていた。


入ると視界に巨大なグランドピアノが映る。それ1つが部屋の大きなウェイトを占めていた。鍵盤のふたのようなものを指でつつっと滑らせる。いつもここでみのりが弾いているのか、そう考えると自然と頬がつりあがる。
…………だが、実はここに入ったときからむわっとした熱気がするのだ。正直、外より不快指数が高い。でも、神社をのぞ――じゃなくて見る機会はそうそう訪れてはくれないかもしれない。とにかく、中をうろつくことにした。
既に、趣旨は変わっていた。
未だ、気の早いセミが鳴く。とてもうるさかった。
「こんなとこに部屋があるのか」
1つの扉を見つけた。どうやら増築されたような形跡があり、やたら木の素材が新しく見える。足元からは、少しばかり冷気が漂っていた。
聞こえるのはセミの声、木が軋む音。風は吹かず、頬をつたう汗が少々じれったかった。

ミーンミンミンミン……
目の前の戸。入りたい。何度も手を開き、握る。
でも開くな、開けてはいけない。どこか、そんな気がする。開けたらなにか嫌な感じがする。
でもやっぱり人間、好奇心は重要なわけで。
そんな思考は暑さとともに消し去られる。溝口は気楽に戸に手をかけ、とても勢いよく開いていた。景気のよい音とともに眼前に広がる者。


妙に、軽いと思った。







7月27日。お昼より前。私はいつもどおり境内に入る。
「あつ……」
今日はこの時期にそぐわない猛暑らしい。巫女装束を着ているのだが、どうしても中に熱がこもる。まぁ、慣れればそんなに苦ではないのだが。
ミーンミンミーン。
「ミンミンうるさーい!」
叫んだら余計疲れた。
ギチギチギチギチギチギチギチギチ。
「そーゆーことじゃないよ……」
まだお昼前なのになんでこんなに暑いんだろうと、無駄な質問を投げかける。
「あー、この暑さで頭どうかしてるのかなー」
5月は程よい涼しさだったせいで、余計に暑いと感じてしまう。
どうやら、当の溝口さんはいつも通りに来ていないようだし、バイトもする気がしない。元々、あまりしていないのだが。
(自分で言ってて情けないねー、私。別に気にしてないけど。掃除するところもないしね)


ふと思いたつ。こんな暑い日はあの部屋を使おうと。
そう決めると石段を登り、神社に入る。むわっとした熱気が押し寄せてきた。一瞬ひるむが、ピアノにさえもわき目も振らずに歩く。歩くたびに木がきしむ音がした。
そして1つの扉の前に立つ。
ここを使うのは実に1年ぶりだろうか。放置、といえば聞こえがあまり良くないが、夏くらいにしかここは使わないのだ。ホントの巫女ならば、むしろ冬に使用すべきなのだろうが、私は所詮、エセ巫女であり、面倒なので冬にはあまり使う気にはなれない。
風邪でも引いたらたまらないし。大体、冬にするのはバラエティー番組の罰ゲームくらいだと思う。


みのりは部屋に入り、戸を閉じる。
この部屋は、比較的新しめの材木で作られていて、数年前に増築したものだ。そのお金がどこからまかなわれているかは不明である。あまり深く考えないほうがいいが、……もしかしたら賽銭箱のお金を使っているかもしれない。
(ホントにそうだったら……いや、あんまり考えないほうがいいかも)
それで、この部屋は夏の暑さを解消するために作られたもので、水行をするための部屋だ。水行というのは心の乱れを取り払うところらしい。水を被って心を引き締めるらしい。もちろんエセでバイトな巫女な私にそんな思考はないのだが。
簡単に言うならば、ただの水浴び場だ。


みのりは中に入り、戸を閉める。まだ水を出していないので相変わらずの熱気が押し寄せる。白装束とはかまを脱ぎ、上に立てかけてある棚に乗せ、白い襦袢1着となった。襦袢(じゅばん)というのはワンピより長くて薄めの布である。
あえて言うならば、下着。
みのりが着ているのは襦袢の中でも長襦袢と呼ばれるもので、足首まで丈がある。
半襦袢というものもある。Tシャツ程度の長さで、夏に着るものだ。昨日は涼しかったので長襦袢で大丈夫だと思ったのだ。
(天気予報、ちゃんと見とけばよかった)
ため息1つ。とにかく、みのりは下着1着となった。


蛇口から水を勢い良く出す。少しずつ熱気が冷気に押し負け始めた。ある程度溜まったとこで手桶1杯の水をすくう。光の加減でゆらゆらとなびく水は見てて飽きない。
手桶を頭の上まで持ってきて、水を被る。
ザバーッ。
「つめたーいっ」
ほてった体を一瞬で冷やしてくれるのはいいんだけど、やっぱり冷たすぎた。
髪の先から水がしたたり落ちる。
「たしかピアノのある部屋の押入れにバスタオルが……」
それで体を拭こう。その後は足を水に浸す程度にして、まったりしよう。
そう決め、濡れた襦袢が体を冷やすので腕を組みながら立ち上がる。まだ体温で少しくらいはましになる。
ひたひたと濡れた床を歩き、扉に手をかける。景気の良い音とともに眼前に広がる音。


妙に、軽い戸だった。









ガラガラガラー……
溝口は戸を開く。同時にみのりも。
案の定、2人はばったり出会ってしまった。
「え、みのり……ぃい!」
「溝口さん、こんなとこにまでどうしたの?」
みのりは白い布1枚を着ただけで、しかも透けていた。生き生きとした白い肌があらわになっている。濡れた襦袢が肌に張り付いているので、恐ろしいことに未熟な胸のふくらみ具合がよくわかってしまった。
……一応、見ていけない部分は見ていないと言おう。でなければ殺されてしまうやも知れない。誰にって? さぁ、神様にでも聞いてくれ。


「あれ、溝口さん顔赤いよ? だいじょぶ?」
「いや…みのり……」
「ん?」
どうやら気づいていないようだった。意を決して言葉を紡ぐ。
「あー、ごほん。みのり、……透けてる」
「え? ……あっ」
どうやら気づいたようだ。その拍子にみのりは頬を赤に染めてうずくまってしまった。体操座りを中腰にしたような体制でみのりが小さな声を出す。
「溝口さんの、バカ……」
「えっとー」
「あっち向いててっ」
溝口は口をほころばせながら踵を返す。軽く怒鳴られてしまった。それでも、溝口にはその光景さえ可笑しく思えてしまったのだ。
「ど、どうして溝口さんがここにいるのっ」
みのりが動揺しているのが見なくてもわかったから。


さて、どう答えるべきか。今までの事情を説明するのは、良い答えでない気がするし、なんとなくだと言ってみれば、余計怪しまれるし。

――そうだ、おもしろい事を言ってみよう。


「みのりの……」
姿が見たかったから、と言おうとしてそれを飲み込む。これではただの変態じゃないか。
とっさに別の言葉につなげていた。もしかしたら演劇の才があるのかもしれないかと思うくらいに。
「みのりがピアノを弾いている可憐な姿を見たかったからだ」
みのりには見えてないが、真剣な顔で答えてしまう。どうしよう、自分で言ったのもなんだが、かなり恥ずかしい。もしかしたら耳まで赤くなっているのかもしれない。
「あ、あぅあぅあ……み、みみ、溝口さんのバカーっ!」
突然、背中に強い衝撃が走った。足を踏ん張ろうとしたが、あまりに唐突だったのでそのまま前にのめりこんでしまった。
とっさにみのりの方を見て文句を言おうと振り返る。しかし、みのりは戸に手をかけ、勢い良く閉めようとする途中だった。
その僅かコンマ1秒。みのりがうつむいたまま、ホオズキのように赤く染まった頬、悶々としているのを見た。
「傷口に塩を塗るようなこと言ってどうすんだよ俺……」
長めのため息。隣の部屋からの冷気のおかげで少しは涼しい。それでも、体の心からこみ上げてくる熱量のせいで、その冷気も役目を果たせない。戸は既に閉められ、またセミの大合唱が聞こえだした。
「外で、待つか」
とにかくここにいてはダメだろう。溝口はとりあえず外に出ることにした。みのり〜、外で待ってるからな〜、とも言えずに溝口は石段の元へ戻った。




「な、なんで溝口さんが〜っ」
水を頭からかけて体を冷やしたはず。それなのに、体中が熱かった。
もう平常心なんて保てない。
火照ってしまった体。冷や汗がとめどなく流れる。


(と、とにかくおちついて深呼吸っ。だ、ダメだ……平常心なんてたもてやしないよぅ……。そうだ! 手をぐっぱぐっぱすると気持ちがおちつくってテレビで言ってたような気がする! ぐっぱ、ぐっぱ、ぐっぱ。……だめぇ、さっきの光景がリピートされてて……。あ、そういえば手のひらに『人』って書いて食べるといいって言ってたっ。なんかでっ。人人人人人人、ぱくっ!)

実はみのり、とってもピュアだった。




空気が最も暖まるころ。溝口はまたこの石段の上に戻っていた。
日差しがじりじりと肌を焼く。だがそれ以上に溝口を火照らせるものがあった。
溝口もさっきのことを思い出していた。
とても、とっても恥ずかしい。多分、みのりのほうが照れくさいのだろうが、恥ずかしい。自らが発したセリフと、みのりの真っ赤な頬を思い出すと、みのりと顔も合わせられない。それくらい面映(おもゆ)かった。

ぼうっとしているとやがて、後ろから足音が近づいてくる。
溝口は瞬時にさっきの出来事を思い出してしまい、うつむく。なんと要領の悪い人だろう。
みのりが溝口と同じ高さの段に静かに座る。少し距離を離して。
ヤバイ。会話が起こらない。
じりじり、ミンミン。日差しとセミの鳴き声のコラボがムダに轟く。

10秒。だいたいそのくらい。溝口は勇気を振り絞り、口を開いた。
「な、なぁ」
「ね、ねぇ」
見事。グレイト。一発勝負。見事成功。
……なはずがない。

なぜか同時に振り向いて、揃っていた。途切れさせてはダメと思い、急いで言葉を続ける。
『そ、そっちが先に言』
今度は素晴らしく被った。完全に途切れてしまう。
ここまで見事だと、喉から出かかっている言葉は詰まってしまう。
「ちょ、ちょっとピアノ弾いてくるねっ」
みのりは石段から飛び跳ねるように立ち、神社の中へと駆けていった。耳を真っ赤にしながら。
途中で、あいたー! と言う声が聞こえたのはピアノに足の指をぶつけたのだろう。

(ほんと、ダメダメだなぁ……)
ため息1つ。たった1本の大木がそよ風に揺れる。空へと伸ばした手を開いてみる。
この性格に心底落ちこんでいるわけではない。むしろこの状況になったことでおもしろくなったと思っている。
みのりが慌てる姿はいつまでも見ていたい。
ピアノの音が聞こえる。いつもの、そして自分にとって最高の音色が聞こえる。しかし、セミの羽音が多少の雑音になる。
「どうやら……ホントに『みのりのピアノを弾いている姿』を見たいらしい」
ピアノの音を純粋に、それを弾くみのりの姿を、見たい。
空に伸ばした手のひらを返して、腕の枕代わりにする。あの音はリラックス効果というよりは、α派でもでているのだろう。そういうことにしておく。
眠気と共に、まぶたの裏でさっきのみのりのあわてた姿を思い出しながら、苦笑していた。




「み、溝口さんまた寝てるっ!」
「ん? 起きてるぞ」
「めずらし」
日が翳る準備を始めるころ。みのりが神社の中から戻ってきた。
同時にちょうど溝口も起きた。ピアノの音色が消えたことを違和感と感じて、ちょうど良かったのだろう。
みのりは平静を保てるくらいに落ち着いたんだろうか。それともむりやり抑えてるだけなのだろうか。
そんなことを考えているとみのりがもじもじしながら口を開いた。
「あのね、溝口さん。も、もしだけど見たかったら……見ても、いいよ?」
「なにをだ?」
「わ、私の……すがた」
口にした瞬間、真っ赤な髪に映えた肌が染まったように見えた。数刻、沈静とした静寂が包み込み、風が2人の髪をなでる。溝口の驚き方は少々、わざとっぽかったかもしれない。
「え……ええっ!」
「そんなに驚かないでよっ。恥ずかしいじゃん……っ」
「お、おぅ、すまん」
互いに顔を合わせられない。地面に目を向けたままの会話が続く。
溝口は少しずつ覚悟を決める。ここでフラグ――じゃなくて誘いを断ったらあらゆる意味でチキン過ぎる。ここでヘタレっても仕方ない。
「み、みみ、見たい?」
「見たい」
男なら覚悟を決めろ。そして漢になるんだ!
みのりは小さく頷くと神社へと歩いていく。
「じゃあ、神社の中に行こ」
あとを追う。2人分の足音が行く。みのりが前で組んだ手がキュっと締められる。その小さな背中を見ながら歩いた。
(す、すがたってアレだよな……? 肌色のっていうかピンクっていうか)
溝口はもう気が気でない。顔の前では平静を保つふりをする程度しかできなかった。
少し歩き、みのりがピアノの前に立つ。久しぶりにみのりがこちらを向く。やはり顔はホオズキのように真っ赤だった。
「あのね、恥ずかしいからむこう向いててほしい」
みのりを背にして外を見る。
セミの声も床が鳴る音も、なにもかも聞こえず、風も吹かない。暑さに耐えて平常心を保つのが精一杯だった。
「いいよ……」
「あぁ」
みのりのほうを向く。そこには椅子に座って鍵盤の前で構えたみのりがいた。
みのりが凛とした表情で鍵盤に指を置く。
「じゃあ、弾くから見ててね」
(あれっ?)
なぜかみのりが曲を奏で始めた。1つ1つの音が連続してメロディーを奏でてゆく。
(ちょっと。まてよ? そういえば俺ってあの時なんて言った?)
『みのりのピアノを弾いてる綺麗な姿を見たいから』
数10秒困惑してから理解する。あぁ……そういうこと。
たぶんさっきの「わ、私の……すがた」は「わ、私のピアノ弾いてるすがた」なのだろう。まったく、とんだ勘違いだった。
妙に気構えた自分がバカみたいだなぁ、と心の中で苦笑いする。
セミの羽音がピアノの音にかき消され、いつもの音が確かに聞こえる。
みのりが真剣にピアノを弾くすがたはやはり綺麗だった。
彼女がピアノを弾き終わってこちらを向いたときには心から褒め称えてあげよう。そう思った。
そして、こんな関係も悪くないゆっくり歩いてゆけばいい。1歩が小さくとも、あせることなく。
1年前から、感情の波にゆられゆられ、みのりがここにいる。
その姿を微笑ましくいつまでも眺め続けていた。


7月。5月より少し離れ、あの涼しかった風が嘘のように変わるこの季節。空との隔たりが近くなったように感じ、緩やかに流れる入道雲を眺めることができるこの季節。2人はここにいた。
運命、と呼ぶには重いだろうが、そのキセキが途切れることはない。




8月が、広がっていく――





おわり。